ラピスラズリのかけら 5:継がる名 5 蜜月の破片【3】

 

 謁見の間を出たシェラートは、不快だという表情を隠しもせずにそのままフィシュアへと向けた。
「なんだ、さっきの?」
 フィシュアは視線だけをシェラートにやると、テトに手を差し出す。まだ小さいと言える温かな手が、すぐにフィシュアの手に触れた。
「ああ……。ごめんね。あんなこと言われたら気に障るわよね、普通。でもね、義姉様の立場としては……皇太子妃としては、仕方が無い言葉だとも思うのよ。それくらいジン(魔人)の利用価値は大きい。ジン(魔人)が持つ力の偉大さは誰もが認めるところでしょう? ジン(魔人)を擁しているというだけで、国内から見ても、他国から見ても、国政には有利に働く。契約者が居るのなら、なおさら操りやすい。ジン(魔人)は契約者に逆らえないからね。その契約者がテトのような少年だったらより一層。
だから、テトがシェラートの契約から外れてて良かったわ。私がテトにここへ来て欲しかったのは、国の盾にする為じゃなくて、テトのお母様が安心できるようにテトが笑顔で暮らせるよう手助けしたかったから。私がシェラートにここへ来て欲しかったのも、ジン(魔人)として働いてもらう為じゃなくて、ジン(魔人)から抜け出す為の手段と、それを使うかどうかシェラート自身で自由に選択できる権利を見つけてあげたいと思ったからだもの」
「けど、フィシュアはそれでいいのか? 皇太子妃のことを言うなら、フィシュアも似たような立場だろう」
 確かにシェラートの指摘は正しい。フィシュアはどう答えるのがよいだろうか、とシェラートの言葉をもう一度思い返し、咀嚼してみることにした。
思案を終えたフィシュアは、一つ頷いてから口を開く。
「……そうね、フィストリア(五番目の姫)としては間違った判断だって言われるかもしれない。でも、今のフィストリアは紛れもなく私自身で……私としては甘いと分かってても、関わらせたくないものは関わらせたくはない。だから絶対にテトとシェラートは巻き込ませたりはしない。
それにね、一応フィストリアの立場として考えても、ジン(魔人)の力に頼るのはどうかと思うのよ。きっと強大な力を当てにし過ぎれば、その力が無くなった時、皇宮は一気に崩れる」
 力に依存することはそれだけで脅威となりうる。それは、ジン(魔人)に限らず他のことにも言えること。
「だから、シェラート。もし、何かあっても自分から関わろうとすることだけはやめてよね」
 フィシュアはシェラートに釘を刺す。すると、シェラートは眉をひそめた。
「別に俺だって自ら面倒事に関わりたいわけじゃない」
「なら問題ないわね。テトを煩わせるようなことはさせないし、私も水初(みそめ)の儀の時みたいにシェラートに頼むようなことはもう無いもの」
 フィシュアはにっこりと微笑んでみせる。
 フィシュアは繋いでいた手を引いてテトを促すと、長い廊下を歩き始めた。
 つられて歩き出したテトは、繋いだ手を離さずにフィシュアを見上げる。
「ねぇ、フィシュア?」
「ん?」
「フィシュアはさっき言ってたでしょう? シェラートがジン(魔人)から抜け出したらって。そうしたら、シェラートはどうなるの?」
 テトの問いに、フィシュアは「さあ、どうなると思う?」とテトに聞き返した。テトはフィシュアの顔を見、それからすぐ後ろを付いて来ているシェラートを振り返り、けれど結局は小さく唸って首を捻った。
 答えを求める視線を受けて、フィシュアはクスクスと笑いながら答える。
「悪いんだけど、私にもまだちゃんとした答えは分からないわ。でも、きっとテトがおじいさんになるまでには分かるわよ」
「まあ、どうせ意味ないだろうな……」
 せっかくの宣言にもかかわらず、背後から聞こえてきたどこか嘆息の入り混じる諦めを示す呟き。フィシュアは勢いよく振り返るとその呟きを発した主を睨みつけた。
鋭さを宿した藍の瞳を向けられたシェラートは危うく気圧されそうになった。それでも、シェラートはフィシュアに引っ張られてこけそうになっていたテトの体を辛うじて支える。
「―――確かに勝手に言い出したのは私だけど、自分のことなんだからシェラートも始めっから諦めるんじゃなくて、ちょっとは努力しなさいよね」
 急に怒鳴り始めたフィシュアを、シェラートは訝しそうに見やった。シェラートもまた、テトの隣に立ち、歩を進める。
「何の話だ?」
「何の話って、シェラートが今、意味ないって言ったんじゃない!」
「ああ、それか。それは、聞いても意味ないって言ったんだ」
「意味がないかどうか分からないから、今から老師(せんせい)の所へ聞きに行くんでしょう?」
「だから、何の話だよ!?」
 一向に噛み合わない諍いは、長い回廊に反響した。
 廊下の至るところ、各々の持ち場に立っていた衛兵たちはそれぞれ不可解そうに首を傾げ、声が聞こえてくる方向へと目を向ける。
 謁見の間では、次第に遠ざかっていく騒音を耳にした皇太子妃が思わず噴き出していた。未だイオルの傍に控えていた臣の二人は顔を見合せて、互いに苦笑を交わす。
 ちょうど口争いを続けるフィシュアとシェラートに挟まれていたテトは、繋がれている両方の手の為に耳を塞ぐこともできず、長めの溜息を吐き出す。それでも、テトの表情はどこか楽しげでもあった。
しかし、回廊の端にまで、こだまする騒音の原因である彼ら二人はそんなことは露ほども知らなかったのだ。
 
 
 
 皇宮の最北に位置する場所。皇宮の本宮とは棟を異にした所にフィシュアの目指す塔は建っていた。
空へと伸びる塔の先端は本宮ほどの高さはないものの、顔を逸らして仰がなければ見えないほどには高い。こちらの塔にもやはり同じように青で彩色された屋根が付いている。ただし、こちらのものは完全なる丸屋根。半円球をそのまま塔の天辺に被せたような屋根である。
 本当に同じ宮内なのかと疑ってしまうほど狭い螺旋階段を三人は登って行く。終わりの見えない階段と、両脇に迫る石壁は閉塞感しかもたらさない。窓もない暗がりを照らすのは、一番前を進むフィシュアが持つランプの心もとない灯りだけだ。
息を切らし、とうとう根を上げて座り込んだテトをシェラートは肩に乗せた。代わり映えのない石壁のせいで、今、塔のどの辺まで来ているのかすら見当がつかない。
「なあ、後どのくらい行ったら着くんだ?」
 シェラートは先頭を行くフィシュアに尋ねる。やはりフィシュアも相当疲れているらしく、登り始めた頃よりも、速度は随分と落ちてきていた。
フィシュアは立ち止ると、ランプを持っていない右手を壁に付けて寄りかかった。
「さあ……。いっつも嫌気が差してから大分経った後にようやく辿り着くのよね」
 だから多分まだ当分先、とフィシュアは零す。
「まだあるのか」
「まだあるのよ」
 二人はうんざりしつつも、少しでも早く登りきろうと再び階段に足を掛け、重い歩を無理矢理進めることにした。
「でもさあ、フィシュア」
 唯一階段地獄から逃れたテトは、それでも、疲れてはいるらしく自身の顎をこつんとシェラートの黒髪に埋めて言った。
「ずっと登ってるのに、一つも部屋が無いよ?」
フィシュアは足を止めずに「ああ」と相槌を打つと、ちらと視線だけをテトに向けた。
「この塔にある部屋は最上階に位置する老師(せんせい)の部屋一つだけなのよ。だから、部屋が見えたらこの階段も終わり」
「じゃあ、部屋って外から見えた部分か?」
「そう。ちょうど、あの青の丸屋根の部分。そこが老師(せんせい)に与えられた部屋兼住居」
 フィシュアの説明を聞いたシェラートは大げさな溜息をついて、へなへなと床へと座り込んだ。
「それならそうと早く言えよ。場所が外から見て知れてるなら、転移した方が早いじゃないか」
「転移……!」
 シェラートの言葉に、フィシュアは愕然とした。普段、歩いて登っていたせいか、その発想は彼女の中に全く存在しなかったのだ。
「……シェラートこそ、その方法を思いついてたんなら早く言いなさいよね」
 フィシュアもまた階段の一つにへたり込んだ。それと同時に長い息が吐かれる。
「もっと楽に登れてたって気付いたら、なんか余計に疲れてきた。損した気分」
「それはこっちの台詞だ」
「でもフィシュアの老師(せんせい)は、いつもこの階段を登り降りしてるんでしょう? 大変だよね」
 テトはとんとんとシェラートの肩を交互に叩きながら、感想を漏らした。
「あれ? 言ってなかったっけ」
 フィシュアは首を傾げて二人に尋ねた。テトとシェラートは揃って彼女の言葉の先を問う。
「私の老師(せんせい)って、北西の国の賢者だもの。魔法は使えるから、老師(せんせい)がこの塔を登り降りする時はいつも転移よ…………って、ああああああ!!」
 フィシュアは自分の発した言葉に絶叫した。どうして早く思い出さなかったのか。シェラートに指摘されるまでもなく、“転移”は常に老師(せんせい)が普段使用している移動手段だったのだ。しかも、フィシュアはそのことをよく知っていたはずだった。つまり、少し考えれば塔を登る以前から容易に思いついたであろう事柄だと言える。
「フィシュアの老師(せんせい)って、北西の国の賢者だったんだ……」
 テトはぽかんと口を開く。
 しかし、テトと同様、初めてその事実を耳にしたはずのシェラートは、フィシュアがフィストリア(五番目の姫)であるということを知った時のようには驚くことができなかった。今のシェラートにとっては驚きよりも、疲労の方が遥かに凌駕していたのだ。
「―――本当に早く言えよな……」
 ばてているのがひしひしと伝わってくるシェラートの恨み言に、切り返す言葉も、体力も持つはずもないフィシュアは深々と項垂れた。
 
 こうして彼らは、今度は迷うことなく残りの行程を完全に無視し、北西の国の賢者の部屋へと転移することに決めたのである。
 
 
 
 

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