「おやおや、今回は随分といつもと違った趣向で来られましたな、フィシュア様」
豊かな白く長い髭(ひげ)を撫でつけながら、部屋の中心に座していた老人は、ふぉっふぉっふぉっと肩を揺すらせた。
棚や机だけでは留まらず、床にさえも足の踏み場もない程、乱雑に置かれた様々なものたち。それは、分厚い本に始まり、地図、羅針盤、望遠鏡といったものから、陶器のカップや皿、菓子にまで至る。天井からは星と月の動きを示した軌道が垂れ下がり、だが、その横には何故か何とも愛らしい笑みを浮かべた子供用の玩具である操り人形たちさえもぶら下がっていた。
辛うじて数多く並ぶものの間にできた狭い道の先に立っている柔和な顔の老人。この人物こそが、現在の北西の賢者、シュザネであった。
「お久しぶりです、老師(せんせい)」
フィシュアは相も変わらず、埋もれるように部屋の真ん中に位置するシュザネに声を掛けた。
「ええ、久しぶりですのお、フィシュア様。イオル様から大体の話はすでに伺っておりますぞ」
シュザネはくるりと丸い水色の双眸で、フィシュアとその隣に立つテトとシェラートに目を向けた。
突如、塔の最上階へと現れた三人組。それにもかかわらず、シュザネは特に驚いた様子もなく、朗らかに彼らを迎えたかに思われた。
「それで、フィシュア様。この方が件のジン(魔人)ですかな?」
辺りのものを蹴散らし、とてとてと勢いよく走って来たかと思うと、がしりと掴まれた腕。部屋の中心から突然傍までやって来た北西の賢者をシェラートは避けることなどできなかった。加えて、老人にも関わらず、シュザネの力はなかなか強かったのだ。
「さすがは素晴らしい紋様で!」
シュザネは水色の瞳を好奇心いっぱいにきらきらと輝かせて、うっとりと眺める。
「いやはや、この手首の紋様には何か法則でもあるんですかのう? だが、しかし、これを紙に写し取るのはなかなか厄介なことになるでしょうな。ということは、解明するのも難しい。うーん、どうしたものか」
シェラートの腕を上げたり下げたり。次いで、シュザネはぶつぶつと呟きながら、シェラートの周りをぐるぐると回り始めた。
「おい、フィシュア……」
唖然として、されるがままになっていたシェラートもさすがにフィシュアに説明を求めた。その間にもシュザネはまじまじとシェラートの観察を続ける。
「この方が、私の老師(せんせい)で、北西の賢者のシュザネ様。ジン(魔人)とジーニー(魔神)に関してはダランズール帝国で一番の第一人者よ。
ダランズール帝国の皇族にはジーニー(魔神)から与えられたラピスラズリがあるでしょう? 私達、皇族は北西の賢者からラピスラズリが持つ力と、ジン(魔人)とジーニー(魔神)について教えを請う必要があった。北西の賢者はジーニー(魔神)が託した皇族のラピスラズリについて興味があった。双方の利害が一致して、約二百年前から北西の賢者は代々皇宮に居を置くことを承知したのよ。
だけど、賢者も魔女も本来は為政者に関わるのは厭うべきこととしているから、北西の賢者が居住場所として選んだのが本宮から離れたこの塔の上なの。大したことないような、ちょっとした用事だったら自ら進んで、あの途方もなく長い階段を登ろうとは思わないでしょう?」
「そんなことはいいから、どうにかしてくれ!」
シュザネはふむふむと自身の白い豊かな髭を撫でながら、真剣な面持ちでシェラートを隅々まで眺め、時折ぶつぶつと独り言を漏らす。
「ああ。老師(せんせい)はジン(魔人)と会うのが初めてなのよ。まあ、私もシェラートが初めて見たジン(魔人)だったけど」
「だから何だよ」
「ええ、だから悪いんだけど、無理。その状態に入った老師(せんせい)は誰も止められないの。だから、無理」
フィシュアはさらりと笑顔で言い放った。唖然としているシェラートにはしばらく我慢してもらうことにして、フィシュアはテトの隣にしゃがみ込む。
「すごいでしょう? テト」
テトは無言でフィシュアに頷きを返した。フィシュア達のやりとりに耳を傾けつつも、テトの目だけは、ちらちらと天井の方をしきりに気にしていたのだ。賢者の部屋に入った瞬間からテトが目線を注いでいた天井へと、フィシュアもまた目を向ける。
見上げる天井。そこには外から見たはずの屋根の要素が一つも無かった。ドーム状に丸く広がる天の空間は、そのまま晴れ渡る青き空を映す。風に乗って流れてきたいくつもの雲が、ゆったりと進んでゆく。
「これも魔法なの。私が唯一見たことのある老師(せんせい)の魔法。ちゃんと屋根はあるのよ。だから雨が降っても大丈夫なんだって」
見ようによっては、天井から吊り下げられた様々なものは、空からぶら下がっているようだ。一見すると奇妙な光景ではあるのだが、そのことを遥かに凌駕し、気にも留めさせぬほど、天井を覆い尽くす空は澄み渡り、目に沁み入るような青さを持つ。
「これからの時間帯が一番綺麗なのよ。ここは皇宮の中でも高い場所の一つだから、皇都全体を見渡せることもできるしね。陽が傾き出すとね、皇都中の建物が黄金に照らされ出すの。そうしたら、この天井の空の端に橙が灯りだしてね、茜、緋、赤、薄紫、淡青ってどんどん表情が変わって行くのよ。そして、最後には、藍色に染まって、夜を映すの。星座が視界いっぱいに広がってすごく綺麗なんだから」
変わっていく空の彩りをもっと近くで感じたくて、フィシュアは幼い頃によくこの塔へと登ったのだ。毎日登って来ると知っていても、シュザネは決して手を貸してはくれなかったのだが。息も切れ切れになって辿り着いた部屋。広がる空の世界と、シュザネが提供してくれる彼の知識の一部が見たくて、フィシュアは飽きることなく何度もこの塔へ足を運んだ。
「テトも私と同じ様に気に入ってくれたのなら嬉しいわ。せっかくだから今日は楽しんでいってね」
フィシュアはテトの栗色の髪をふわりと撫でた。
テトは空を映した天井から目を逸らすと、フィシュアを見上げて、首を傾げる。
「フィシュアは? フィシュアは一緒に見て行かないの?」
「うん、私はちょっと、この後も用事があるのよ」
ごめんね、と謝るフィシュアに「そっか」とテトは少し残念そうに零す。
「この状態のままで、一人だけ帰る気か」
相変わらず纏わりつき、まじまじと眺めてくるシュザネのせいで、酷く居心地が悪いらしい。シェラートは顔をしかめて言った。
それでも、ぞんざいにあしらうことはできないでいるシェラートに苦笑しながら、フィシュアは立ち上がる。
「いいえ。きちんと用事は済ませてから行くわよ。老師(せんせい)には、ちゃんと聞くべきことを聞いてから行かないと。でも、この状態の老師(せんせい)だと、やっぱり色々無理なのよね」
「じゃあ、どうするんだ」
「一時的になら、老師(せんせい)を止める方法は分かってるのよ。だから、その間に聞いてしまえば問題はない」
フィシュアはちらとシェラートを見上げると、「だけど、怒らないでね」と続けた。
シェラートが訝しげな表情を浮かべる。それが分かったから、フィシュアは問いただされる前にと、シュザネに呼び掛けることにしたのだ。
「老師(せんせい)、彼は元々私達と同じ人間で、トゥッシトリア(三番目の姫)のジーニー(魔神)の力によって、ジン(魔人)になったんですよ」
そうフィシュアが告げた瞬間、シュザネは真白な髭を撫で続けていた手をぴたりと留めた。
水色の瞳を丸くさせて、フィシュアの方を凝視する。
「―――フィシュア様……。そ、それは、本当のことなのですかな?」
フィシュアは軽く頷きを返した。「そうだったんだ」とこちらも少なからず驚きを露わにしているテトを手前に出し、彼の肩に両手を添えたフィシュアは再び口を開く。
「紹介しますね。こちらは、テトラン。今日から皇宮に一緒に暮らします。皇立学校にも通うことになりました。テトは勉学への興味がとても高いんですよ。なので、何かあったら私の時みたいに、テトにもご指導よろしくお願いしますね」
「テトラン殿……」
シュザネは噛みしめるように呟くと、水色の目を柔和に細め、節くれだった手をテトに差し出した。
「儂はシュザネと申します」
「シュザネ、様?」
「“様”は結構ですぞ。ちょうどテトラン殿と同じ背格好の御子たちには“シュザネのじいちゃん”と呼ばれておりますゆえ、“様”を付けられるとどうも変な心地がするのです。それ以外でしたら、呼び方は何でも」
「それなら、シュザネさん。僕のことも“テト”でいいよ。僕のことは、みんなそう呼ぶから。よろしくね」
テトはきゅっとシュザネの手を握った。シュザネは、おうおうと、まるで孫でも見るかのようにますます眦(まなじり)に皺を寄せ、テトの小さな手を握り返す。
その光景を傍で見ていたフィシュアは、微笑ましく思いながら紹介を続けた。
「そして、彼がシェラート」
「―――シェラート……殿?」
シュザネはテトの手を握ったまま、フィシュアが告げた名に首を捻った。
「はて? どこかで一度お会いしたことがございましたかな?」
「無いな」
シェラートは迷うことなくきっぱりと断言した。いくら長い時を超えてきたとは言え、ここまで強烈な印象を与えてくる人物ならば、記憶に残らないはずはないのだ。そんなことを思いながら、とりあえずシュザネから解放されたことにシェラートは安堵する。
けれども、シュザネは、なおも「はて?」と思案を続けている。彼の思考を遮ったのはテトの明るい声だった。
「僕はシェラートと一緒に旅してたんだよ。それで、途中でフィシュアに会って、皇都まで来たんだ」
「ほう、そうなのですか。それは、よく頑張りましたね」
シュザネに褒められて、テトは誇らしげに笑った。
「シェラートはサーシャ様と同じカーマイル王国の出身なんです」
「それで、黒髪に緑眼……いや、これは翡翠ですかな?」
シュザネはシェラートの顔をまじまじと見た。だが、先程とは違い、心が浮き立っているという様子ではない。シュザネの足は、きちんと床についていた。
「さっきの話に戻しますと、シェラートはジーニー(魔神)に願いを叶えてもらう代償として、ジン(魔人)になったんです。今日ここに来たのは、老師(せんせい)ならシェラートを人間に戻す方法に心当たりがあるかもしれないと思って……そのことをお尋ねしたかったからなんです。何かご存じありませんか?」
ふむ、と髭を撫ぜたシュザネは、シェラートから目を外すと、今度はフィシュアを見据えた。
「それを知って、フィシュア様はどうされたいのですかな?」
「特には別に。私はただ、シェラートは選ぶ権利を与えられるべきだと思ったからです」
「シェラート殿が己の願いを叶えてもらう代わりにジン(魔人)となることを承諾したこと―――これもまた、彼が選んだ道だと儂は思いますぞ?」
「それでも、です」
シュザネはふむ、と何かを思案する。しかし、結局、彼は首を横に振った。
「残念ながら、儂の持ち得る知識の中にはそのようなものはございませんなぁ。あえて申し上げるとしても、御伽話の中で語られているものぐらいでしょうな。人がジン(魔人)と成れる。そのことさえ、この歳になって初めて知ったことです。ジン(魔人)とまみえることができたのも初めてですからな。いやはや、しぶとく生きて老いてみるものですのお」
「やはり、そうですか……」
もしも、そのような方法があったのならシュザネがフィシュアに語ってくれなかったはずが無いのだ。だから、これは大方見越していた通りの展開。それでも、気落ちはするもので、思わず項垂れそうになってしまった頭を、フィシュアはなんとか支えた。
しかし、シェラートには分かってしまったらしい。嘆息を嚥下して、目がかち合った途端、シェラートは困ったように微苦笑したのだ。
「だから、あまり気にするなって」
フィシュアは思わず憮然とした表情になる。気遣ってくれているからこその言葉だとちゃんと理解してはいるのだ。けれども、はなから期待されていないようなその言い方は、それはそれで腹が立つ。
「気にしてないわよ。だって、まだ充分に希望はあるもの!」
「充分に、か?」
「ええ、ええ、“充分に”ありますとも」
ふぉっふぉっふぉっと笑いながら、シュザネは、かしりとシェラートの腕を掴む。彼の水色の瞳にはきらりと光るものが戻ってきていた。
「ジン(魔人)に会うのは初めてでありますのに、その方が我らと同じ人であったとは何たる偶然、何たる幸運。それも、ジン(魔人)から人間に成る方法を探しておられるとは……ますます探究心がそそられますな! このシュザネ、北西の賢者の名に懸けて必ずやお探しの法を見つけて差し上げますぞ」
「老師(せんせい)なら、そう仰ってくれると思ってました! 是非とも心行くまで研究して下さいね」
フィシュアはにっこりと笑みを浮かべ、北西の賢者に謝辞を述べる。
瞬く間に風向きの変わってしまっていた成行きに、一人顔を引きつらせたのは話題の中心であるはずのシェラートだった。
「おい、フィシュア!」
「“怒らないでね”って言ったでしょう? それに、老師(せんせい)を止められるのも“一時的”だってちゃんと前もって言ってたじゃない」
フィシュアは悠然と笑みを浮かべて、悪びれもなく、けろりとそう告げた。彼女の横では、早速ジン(魔人)の証である黒の紋様を測ろうと、シュザネがものに溢れた引き出しの中から巻き尺を引っ張り出そうとしているところだ。
「大丈夫よ。部屋が整い次第すぐに迎えを寄越すから」
「それはどの位かかるんだよ」
「早くてニ、三時間?」
「…………全く、早くはないな」
「準備にも色々とあるのよ。逃げようとは思わないでね、老師(せんせい)なら、きっとどこまででも追い駆けてくるわよ」
「……だろうな」
見るからに心底うんざりした様子で息を吐いたシェラートに、申し訳ないという気持ちが無い訳でもない。
「でも、老師(せんせい)に頼むことが今のところ一番の近道なのよ」
それにね、とフィシュアはテトにも目をやると言った。
「ここから見る、夜へと移り行く世界は本当に綺麗だから、二人にも一度は見ておいて欲しいのよ」
「うん……でも、シェラートが嫌なら、僕はいいよ」
おずおずとそう告げたテトに、シェラートは苦笑を零す。天井に映った空の端は早くも橙を微かに含みつつあった。
「いや、いい。俺もテトと同じように、少し見てみたいと思ってたからな」
「本当に!?」
テトは、ぱっと顔を輝かせた。テトの喜びようにフィシュアとシェラートは顔を見合せて笑ってしまった。
「下まで送るか?」
あの階段は長すぎるだろう、とシェラートはフィシュアに提案する。
「それは助かるけど……いいの?」
「フィシュアが早く戻れば戻る分だけ、解放される時間も早くなるからな」
「あはは、それもそうね。じゃあ、お言葉に甘えて」
シェラートはシュザネが持ってきた巻き尺を巻きつけたまま一度軽く手を薙いだ。
一瞬の後に、塔がそびえ立つ柔らかな地面の上へと転送され、降り立ったフィシュアは、一人先程まで居た北西の賢者の居する部屋を仰ぎ見る。遠く離れた地上からは、部屋の様子など窺い知ることもできない。
けれど、確かにその場所に居るはずの三人に向かって、フィシュアは一度だけ、高く手を上げて、振ってみせたのだ。
(c)aruhi 2008