ラピスラズリのかけら 5:継がる名 7 蜜月の破片【5】

 

 握りつくった拳で、ロシュは軽く二度、木戸を叩く。
 すぐさま返って来た入室を許可する言葉。慣れ親しんだ声。いつもと変わらぬ文句。
 だからこそ、ロシュは眉を曇らせて、亜麻色の扉を押し開いた。
「フィシュア様、確認もせずに許しを与えるのは危険だといつも申し上げているでしょう」
 苦言を呈す部下を見やり、フィシュアは微苦笑する。
「ロシュの叩き方は他の誰とも違う。間違うはずもない。いつも、そう言っているだろう?」
 両の足さえも窓の桟に乗せて、腰かけているフィシュアの後方には茜色が映る。
背へと流れる濡れそぼったままの長い髪は、ところどころで水滴が光り、瞬き、夕日をそのまま宿しているかのようだ。
甘い花に似た香りが辺りに、くゆっているのは、ついさっきまで彼女が湯浴みをしていたせいであろう。
「テト殿の皇立学校入学許可証です。これで明日からでも、入学できますよ」
「ん。ありがとう」
 フィシュアはロシュから差し出された書類を受け取った。ぱらぱらと捲り、ざっと目を通して確認する。
「この格好をご覧になっていたら、フィシュア様が“お姫様”であるとすぐに納得してくれたでしょうね」
 淡緑色の薄布で仕立てられたドレスは、貰ったばかりだという薄桃の腕飾りにもよく似合う。何よりもフィシュアの濃い藍の双眸を引き立てていた。帰って来たばかりのフィシュアを目にして、迷わずにこのドレスを選んだ彼女の侍女たちは大したものだろう。
 けれども、当の姫はお気に召さないらしい。フィシュアは足先まで覆い隠す程の丈の長いドレスを摘まむと、渋い顔をつくった。
「長い。動きにくい。もっと動きやすい服を用意していたのに、湯殿に入っている内にすり替えられた」
「だから、侍女たちを全員追い出してしまったのですか?」
 ロシュは机の上に投げ出されていた厚布を手に取ると、そっと主の髪にあてがった。水気を含んだ彼女の髪は、小さな癖が波を作る。
「だって、あれやこれやと飾り立てようとするんだぞ? もう暮れなのに、こちゃこちゃと髪結いの準備までしだしたからな。飾り装うのは明日だけで充分だ」
 ロシュは相変わらず丹念に布へ水気を吸わせ続けながら、苦笑にもとれぬ笑みを浮かべた。
「仕方ありませんよ。フィシュア様がお戻りになるのを、皆、今か今かと待ち構えていましたからね。ようやく、お世話できるとなって楽しくてしょうがなかったのでしょう」
「される方の身にもなって欲しい」
 フィシュアは溜息をつくと、されるがまま、ロシュの好きなようにさせて、顎を両膝の上に載せた。
「義姉様は何と?」
「イオル様からは何も。ただ、ホークは明日にでも帰って来るだろうというオギハ様からの伝言をファッテ殿より言付かりました」
そう、とフィシュアは呟くと、夕暮れに染まる窓の外を見た。塔の上からは見えているはずの家々の屋根。ここからでは高さが足りず、影すら見えない。見渡す限りの緑の庭園と、その上に広がる宵の始まり。孤高な鳥の姿はなく、代わりに群れ行く鳥が緋の空を渡った。
「例のジン(魔人)の方は?」
「そちらも何も。オギハ様がファイをお遣わしになったのは、情報収集の為でしょうが」
「なら、皇都は―――」
「今のところは問題ありませんね。ただ、火点けと、それに伴う物盗りが相次いでいるようです。ルディ様がすでに警備隊の巡回強化の手配をなさっています」
「火点け……」
 フィシュアは眉をひそめ、ロシュの方へと向きなおった。
「それは、アエルナ地方のものとの関連は無いのか? アエルナの消された村も火によるだろう」
「恐らくは。皇都のものは、どれも人の手によって点けられたのであろう痕跡が焼け跡に残っています。何よりも規模が違いすぎますから」
「そんなに酷かったのか」
「ええ。フィシュア様がいらっしゃらなくて良かったと思うくらいには」
 ロシュは琥珀に近い薄茶の髪から厚布を外し、微笑した。口元は笑むも、昼の空と同じ色の彼の瞳には、微細な翳が入り混じる。だがそれは、やがて柔らかな困惑へと変わり、すぐに打ち消えることとなった。
「あなたがそのような顔をなさると非常に困るのですが」
「私はロシュが居なくなってしまったら困る。良かった。本当に無事で。ジン(魔人)に遭遇していなくて」
 硬く握りしめられたフィシュアの手を、ロシュは取って解いた。俯いたままの主を彼は膝を付いて、下から覗き見上げる。
「泣かないでくださいよ? 幼い頃のようには慰めて差し上げませんからね」
「泣くわけないだろう。もう子供じゃないんだから」
「ええ、フィシュア様はとても大きくなられましたからね」
 今はもう、揺らぎの覗かない藍にロシュは微笑した。
「あの頃に比べて人の痛みを理解してしまう分、あなたは誰よりも弱くて、誰よりも強くなりましたから」
「それは結局どっちなんだ? 褒めているのか? 諌めているのか?」
「褒めと取ってくれても構いませんよ。褒めるところすら持ち得ないのなら、私もホークもフィシュア様には仕えていませんから。フィシュア様の他人を省(かえり)みすぎるその性は、あなた自身が解しているように甘さであり、欠点であり、弱みでもあり、けれども同時に尊敬すべき美点でもあります」
「やっぱり、諌めているんじゃないのか……?」
 不審そうな目をするフィシュアに、ロシュは「違いますって」と否定する。
「あなたが必要としてくださる限り、私は居なくなったりはしませんよ。自身であなたに仕えることを決めた時から、予期せぬ力と対峙することは承知の上です。それはジン(魔人)に関しても同じこと。先に遭遇していたとしても覚悟は出来ていましたし、なんとか切り抜けて帰って来ていたと思いますよ。それに、私の役目はフィシュア様の護衛ですからね。あなたの居ないところで、おちおち死ぬなど許されないのですよ。
つきましては、今回のジン(魔人)に関しても、私のことは構わずに。いつものように、他のかたの方に気を配って、お好きなように動いてください。私の方もいつものように、あなたをお護りいたしましょう、我が君。たとえ、我が命に代えてでも」
 息を飲んで言葉を失ってしまったフィシュアをとくと眺め、けれど、堪え切れなくなったロシュはふと可笑しそうに噴き出した。
「…………と、いうのは、フィシュア様が酷く嫌いますからね、死なない程度にお護りしましょう。元より私もできるだけ死にたくはありませんし」
「からかってるのか?」
「さっきの言葉が嬉しかったので」
 フィシュアは半眼すると、焦げ茶の頭をぺしっと叩いた。
ロシュは甘んじてそれを受けることにした。受けたとしても、大して痛みはないのだから。
「どんな場合でも、あなたの傍らにお控えいたしますよ、フィシュア様」
「―――そうか、……言ったな、ロシュ。なら、文句は言わず、ついて来いよ?」
 フィシュアはすくと立ち上がった。ロシュも立ち、厚布を綺麗に折り畳んで、もとあった机の上に戻す。
「もしかして、市井に降りる気ですか。皇都に帰って来たばかりで、お疲れだというのに?」
「苦言は聞かない。それが、さっきの罰!」
「どちらにしろフィシュア様はなかなか聞いてはくださらないじゃないですか。それに、始めから歌いに行く予定だったのでしょう?」
「よく分かってるじゃないか」
 フィシュアはニッと口の端を上げ、「では、話は早いよな」と衣装箪笥から外套を取り出して、纏った。
 ロシュは肩を竦めてみせてから頭を垂れると、馬の手配をする為に、早速、厩へ足を向けたのだ。
 
 
 
 
 陽の名残りさえ落ちてはいない藍に塗りつくされた空。星が一つ、二つと灯されていったように、イオルもまた、薄闇に落ちた部屋に火を灯すようにと侍従に命じた。
 腰掛けた寝台は柔らかく、さらさらと滑る敷布をイオルは指の腹でなぞり、遊ぶ。
 薄い紗の天蓋の向こう、淡く揺れる灯りはぼんやりと辺りを照らしだした。
 暇を乞う侍従に頷きを返し、退出を許す。
 皺一つ無い敷布へと目を落とした視界の端、けれども、微かに動いた気配に、イオルは顔を上げて、次の間へと続く、扉の方に視線を向けた。
「なあんだ、居たの、オギハ?」
腕を組んで、扉の脇に寄りかかってこちらを眺めていた男の姿に、イオルは顔を綻ばせた。
「それは、こっちの台詞だ。なあんで、イオルがここに居るのかな」
 向かってくる男の藍の双眸が持つ、窓の外の夜よりも鮮やかで、それでも闇夜になりきらぬ色に、イオルは、ふふと微笑んだ。
「おかえり、私の夜の帳(とばり)」
 するりと上げ開かれた薄紗の幕からイオルは白く細い両の腕を出して、「答えになってないし」とごちるオギハの瞼に口付けを落とした。
 首に腕を絡みつけてきて、先程よりも間近に迫った紺碧の双眸を、しかし、オギハは手で覆い隠して遮った。
「駄目。もう疲れた」
 腕を面倒臭そうに外されたことに不平を言いつつも、ぼすりと寝台に腰かけたオギハの背にイオルは性懲りもなくおぶさり、纏わりつく。
「皇太子様はいつだってお忙しいものね。そりゃあ、さぞお疲れのことでしょうよ」
「分かってるなら解放してくれないか」
「けど、私も疲れてるのよ。オギハに謁見役を担わされたせいで」
「それなら余計自分の部屋に帰るべきだな。一人で心ゆくまで充分に休むといいさ」
「いやー。一人ばっかりはつまらないもの。フィシュアも遊びには来てくれそうにないし」
 せっかく久しぶりに遊べると思ったのに、と口を尖らせたイオルを背にのせたまま、対するオギハは「フィシュアになら会いたかったんだけどな」と長く溜息を吐き出す。
「んーそれは、多分大丈夫よ。ロシュがオギハに叱って欲しいことがあるって言ってたから、明日にでも顔出すんじゃない?」
「そうか」
「……オギハ、そこは喜ぶ場所じゃないでしょう」
 イオルは呆れているような声をわざと出してみた。顔を見なくても、妹に会える可能性を知ったオギハが、破顔しているのだろうことは明らかなのだ。
「ほんっと、オギハは弟と妹が大好きよねぇ」
「俺のは、弟も妹も全員可愛いからな」
「私はー?」
「あー、可愛い、可愛い」
 どこからどう聞いても、とってつけたようなオギハの物言いに、イオルはくいくいと夫の薄茶の髪を引っ張って、意義を唱える。
「それで? とっても可愛いあなたの弟妹たちはどうするって?」
「ドヨムは帰ってくることになった。他はそれぞれ手一杯だからな。だが、これで皇族のラピスラズリは三つを除いて全て揃う予定だ。何とかなるんじゃないか? ジン(魔人)三人に、ラピスラズリ持ち九人ならな。充分だろう」
「余裕ねぇ。でも楽観主義すぎやしない? 実際に使えるのは九つではなくて七つでしょう? 皇帝様はおいでにならないだろうし、皇太子であるあなたも後方の砦に悠々と座しておくべき」
「むしろ、お前が皇宮(なか)に籠っとけ。俺が出る」
 イオルは紺碧の瞳をぱちくりと瞬かせた。けれど、すぐに花びらのような唇に笑みを載せて、おやおや~とオギハの前に回り込む。
「心配なの?」
「ああ、心配してる。お前が、また俺の弟妹たちに手を掛けでもしたら、こっちの陣営が減ってしまって困るからな」
「いつの話よ!」
 息巻くイオルの首筋に、オギハは音もなく自身の片手を添えると、彼女の名を呼んだ。
「弟や妹を傷つけるって言うのなら、容赦なく殺すよ? あの時の輩と同じようにね」
 透き通るほど白い首は柔らかく、血潮を隠す薄い皮を、オギハはすうと撫ぜた。
「だから、皇族の所有の証で我慢しとけ。俺は自分の所有物をとられるのはすごく嫌いだからな」
 イオルは引き寄せられるがまま、逆らうことなくオギハの肩に頭を預けた。
 ん、とささめいて、彼女はうっすらと目を細める。
「もう、証しかいらないから。頼りの鎖を勝手に外しちゃったのはオギハなんだから、責任はきちんと取り続けてよね」
「最終的にとっぱらったのは、お前自身だろう」
 それでも、と言いかけて、イオルはその言葉を呑み込んだ。
 全ては過ぎ去った過去のこと。どちらが取り除いたにせよ、事実、鎖は失くなってしまったのだから。
 イオルは、頭をオギハの肩から離して、「それで?」と、覗き込むようにして彼に顔を近づけた。
「ご一緒してもよろしいんですかね、皇太子殿下」
「どうせ帰るつもりないんだろ」
「ご名当」
 にんまりと笑うイオルを見て、「寝首をかこうとしないならな」と、オギハは億劫そうに降参の意を告げる。
「だから、いつまでそれを引っ張るのよ!」
 イオルは怒ってみるも、どうせ到底敵わないであろうことはとっくの昔に知れていたから、本格的に憤ることはやめて、代わりに宵闇に想いを馳せた。
 もしかすると、未だにどこかで歌っているかもしれない一人の歌姫。あの娘の場合は、これから一体どうするのかしらねぇ、と。
 
 
 
 
 

(c)aruhi 2008