ラピスラズリのかけら 5:継がる名 8 夕星の灯し風【1】

 

 風が強い。
 冬の到来を告げるナディール(季節風)が西から東へと早くも吹き荒び始めたのだ。
 冬、と言ってもダランズール帝国の大部分において、夏との寒暖差が極端に激しいということはない。帝国の西に位置する砂漠。不毛の地で温められた熱気が風に乗って皇都がある東海岸までやって来る為、砂漠以東は比較的温暖であるからだ。ただし、強靭な風は砂漠の乾きをも絡ませて、辺り一帯の全てものを煽る。
「すごい風だな」
 時折ぼうぼうと音を立てる風に、手にしていた分厚い書物から顔を上げたシェラートは窓の外に広がる世界へ視線を向けた。
ただ一つの部屋だけの為に存在する塔の最上階。皇宮の外庭も城壁も軽々と飛び越えて、都全域を見渡すことが可能な場所。これだけ地上から離れているにもかかわらず、眼下にある樹木が傾いでいるのが分かる。普段は重みで垂れているはずの葉も風に乗って流れていた。室内に立っている分には微塵も感じない風の威力はそれだけで、容易に知れる。
「そりゃあ、そうでしょう。ナディール(季節風)が支配するこの季節、西の大陸と東の大陸を結ぶ航路は、荒波が立ち騒ぎます。しかるべき装備の積まれた大型の船舶でしか渡ることができますまい。つまりは、それほど強い風が吹くのですから。これはまだまだ序の口ですぞ」
「それにしても強くないか? リムーバに居る時はここまで強くはなかったと思うんだが」
「ほう、シェラート殿は皇都に来られるまではリムーバにおられたのですか」
 北西の賢者の問いに、シェラートは肯定を返す。リムーバは砂漠よりも北西端にある街だ。北か南かで言えば皇都とそれほど変わらぬ位置にあるが、西か東かで言えばダランズール帝国のほぼ両端に値する。「それなら、仕方がありませんねぇ」とシュザネは零した。
「風は風に乗るほど勢力を増してゆきますゆえ」
 えんじ色の革で装丁された本から視線を上げもせず、シュザネは口の端だけを緩める。
 確かにリムーバに吹くナディール(季節風)は、それほど強くはなかった。だが、ならば、ダランズール帝国よりも東にあるカーマイル王国の方がナディール(季節風)は強かったはずである。
けれど、シェラートはそんな記憶を持ち合わせてはいなかった。もしかすると、そうだったのかもしれない。故国では当たり前であったから記憶の断片にすら残っていないのかもしれない。シェラートにとって、カーマイルでの風に関する思い出は、幼馴染みの二人と共に風の中心に向かって馬を駆けさせたことくらいだ。果たして、その風こそがナディール(季節風)であったのか―――シェラートにはもう思い出せはしなかった。
 シェラートは片眉を上げた。
「おい、シュザネ」
はい? と、返事が返って来る。しかし、心はここに非ずと言った感じだ。先程の会話もそうであった。シュザネは、尋ねられればそれに適した答えを返すことができるらしい。例え、無意識であろうとそうでなかろうと。そのことをシェラートが悟るのに、三か月もあれば充分だった。
どうやら自ら目を離すつもりはないらしい、とシェラートはシュザネの手の中から、えんじ色の本を宙へと浮かせた。ふわふわと部屋の中を漂い始めた本にあわせて、シュザネも目を泳がせる。
「それが、探していた記述なのか?」
「いいえ。しかっ……ああっ!」
 容赦なくパタンと音を立てて閉じられてしまった本に向かってシュザネは悲痛な叫びを上げた。
「い、今、いいところでしたのに! トゥスカナ歴三年! 海鳴りの月! レアイに現れたジン(魔人)たちの闘争によって誕生したセジアル湖! いいですか、シェラート殿、この時できた四つの湖、通称、朝昼夕夜の湖。一体どの順番でできたのかは今日でもなお議論され続けているのですよ!? どれからできたかが未だ解明されないゆえに、どれが、朝で昼で夕で夜の湖かは分からないという。儂はこの小さいものから大きいものが順につくられていったという説が一番有力であると思って―――」
「分かった……分かったから、落ち着け」
 シェラートは取り上げたばかりの本を、そのまま棚へと向かわせた。吸い込まれるように収められた本はこれでとうとう396冊目である。今しがた収めたえんじ色をした革の装丁本の隣に、シェラートは自身が手にしていた分厚い本も並べ加えた。
 
 
 皇都に到着してからは既に三か月ほど経つ。
始めの頃は、フィシュアも様子見がてらかちょくちょくと顔を出していたが、それもめっきりと減った。特に、ここ一か月は出くわしてすらいない。
広大な皇宮である。意図をもって互いに訪ねようとしなければ、出会わないのも無理はないだろう。シェラートはそう思っていたのだが、事実は少しばかり違ったようだ。シュザネが言うには、常日頃からフィシュアが皇宮に居ること自体が酷く珍しいことらしい。フィシュアが皇宮に滞在しているのは『皇帝からのお召しがあった時』のみ。つまり、その期間は対外的には“宵の歌姫”が皇宮に招かれていることにされている。それが、宵の歌姫自身が皇帝の息女であるフィストリア(五番目の姫)と悟られない為の至極簡単で、有効な方法であると。加えて、この一月は、またどこかへ出向いていると言う。
フィシュアの不在をシュザネから聞いて知るきっかけとなったテトの言葉。「フィシュアに会えないのは寂しいね」と沈んだ顔で零していたテトも昼間は皇立学校へと通っている。
とどのつまり、皇宮に来てから一週間もするとシェラートはテトが学校から帰ってくるまでの日中、特にすることもなく手持無沙汰に過ごすことが多くなっていったのだ。そして、テトを学校へと送り出した後、ぼんやりとしていたところを、北西の賢者であるシュザネに捕まった。出会った時と同じように、がしりと腕を掴み、キラキラと目を輝かせる老人に逆らえるはずもない。逃げたら逃げたで、今度は追い駆けまわされるだろうことは容易に想像がつく。
それでも、シュザネを押し付けられた感が否めないのは、フィシュアに怒られるのも面倒だという考えが少なからずシェラートの中にあったからだ。そして、シュザネ。彼の作業は三か月経った今でも一向に進みそうになく、シェラートは延々と北西の賢者に付き合わされ続けるはめになっていたからだ。
 
 
そもそもの事の始まりはシュザネがシェラートに投げかけた一つの問いだった。
シェラートの左手首に刻まれたジン(魔人)であることを示す黒の紋様。それをなんとか写し取ろうと薄紙を押し当て奮闘していたシュザネに呆れながらも、シェラートは紋様を浮かべ取ると紙に焼き付けてやった。貰った紙をほくほくと大事そうに抱えていたシュザネは、唐突にシェラートへ尋ねたのだ。
「皇家にはジーニー(魔神)にまつわるラピスラズリがあることをご存知ですかな」と。
 目の端に幾本もの皺を刻み、柔和に水色の瞳を細めたシュザネに対して、シェラートは首肯した。ジーニー(魔神)とトゥッシトリア(三番目の姫)についての御伽話は、事実がどうであれフィシュアがテトに話聞かせているのを聞いていたし、シェラート自身、話の中心人物たちをよく知っているのだ。
 この国では有名な御伽話ですからな、とシュザネは微笑し、続けて問うた。
「それでは、ジーニー(魔神)に与えられたとされるラピスラズリの数について、記述が二通りあることを知っていますかな?」
「二通り?」
 尋ね返せば、シュザネは「そうです」と頷く。
「今現在皇家に伝わるラピスラズリは全部で十二。シェラート殿は既にお気付きでしょうが、フィシュア様がお持ちの首飾りもその一つですじゃ。ラピスラズリは代々皇帝と第一皇妃、そして皇子、皇女のそれぞれ第五位までに継がれております。形は様々。首飾りに始まり、腕環、剣、懐中時計とそれぞれに異なります。彼らが持つ役目がそれぞれに違うように、です」
「ラピスラズリが十二もか……」
 魔力を無効にされる道具でもある深い色を持つ藍の石。保持者に害が及ばない限りは効力を発揮しないことを今ではもう知っているが、それでも気は自然と陰鬱となる。シェラートのげんなりとした響きを聞き取ったのか、シュザネも「分かりますぞ」と苦笑しながら相槌を打った。
「しかも、皇宮にもたらされたラピスラズリの威力は他のラピスラズリとは圧倒的に相異なります。普通のラピスラズリでは耐えきれず砕けてしまう程に強い魔力であっても弾き返す。それが十二。
 けれども、既存する初期の文書には与えられたラピスラズリが十二であったとはどこにも記されてはおらぬのです。皇宮に残る公式文書も同じこと。“ジーニー(魔神)からラピスラズリを貰い受けた”としか書かれてはおりませぬ。実際に伝えられてきたラピスラズリは十二であるにも関わらずに、です。
確かに、十二のラピスラズリの詳細については皇家の秘匿ゆえ一般には出回ってはおりませぬ。されど、研究に携わる者なら誰もが当然として知っている知識。ラピスラズリについて詳しく言及されている現在の文献にはきちんと十二であると記されています。ならば、なぜ、初期のものは十二と示されていないのか」
 シュザネは人差し指を立てた。節くれだった指は、けれども、威厳をもってぴんと伸びる。
あくまでも、これは儂の仮定なのですが、と前置きしてから、シュザネは重ねて言った。
「シェラート殿、儂はジーニー(魔神)がダランズール帝国皇家に渡したというラピスラズリは一つであったのではないかと考えておりますのじゃ」
「けど、十二あるんだろう?」
「それです。ですから、真にジーニー(魔神)が渡したというラピスラズリは十二のもののうちのどれか一つだけなのではないかと…………もしも、この仮説が当たっていたとするならば、その唯一のラピスラズリとシェラート殿の紋様、これらの二つからジーニー(魔神)の魔力を分解、解析してみれば、シェラート殿を人間に戻すという道も開けるのではなかろうかと、考えておるのですじゃ。
なぜなら、このどちらもが同一のジーニー(魔神)が与えしもの。ですが、ジン(魔人)の紋様というのは年々変化ゆくと聞いておりますからなぁ。今ではシェラート殿自身が持つ魔力と混ざり合ってしまっておるでしょうが……しかしながら、根底にある魔力は変わらぬはず。ただ一つのラピスラズリを見つけることができれば、それを手掛かりにジーニー(魔神)の魔力を辿って、紋様からジーニー(魔神)が刻んだ構成だけを取り出すことが可能でしょう」
「……そんなことができるのか?」
 思いもよらなかった方法である。知らず目を見張っていたシェラートに、しかし、シュザネはゆるりと首を振り、「分かりませぬ」とあっさり返した。
「試した者も、確かめる術も、今のところありませぬゆえ。けれども、試してみる価値はあるとは思いませぬか、シェラート殿。その為に、これが必要なのです!」
 ぱっと辺りを見渡したシュザネは、自信に溢れていた表情を不穏気に曇らせ、次いで首を傾げた。そのまま、がさごそと本とガラクタの山を漁り始める。
「どうしたんだ?」
「えーとっ……何事も基本に立ち返ることが大事でありますでしょう? ジーニー(魔神)が与えたラピスラズリについても同じことが言えないはずがありませぬ。実際に起こって、立ち会った者がおるのです。きっと記述が初期であればある程真実に近いはずですじゃ。儂が今覚えている以外の記述がどんなに小さなものであったとしても、何かしらの手掛かりにはなるかもしれないと考えたのです。
―――確か一年か二年……いや、三年前はここら辺にそれに関するものを広げていたはずなのですが……どうやら見当たらないようですな」
シュザネは、ふぉっふぉっふぉっと揺れる白い髭を撫でつけながら、開き直った。「頑張って探すしかありませぬな」と暢気な声を出した北西の賢者に、シェラートはかける言葉すら失い、代わりに長く息を吐き出すしかできなかった。
こうして、記述が書かれた本の捜索もとい発掘が開始されたのである。だが、床でさえ足の踏み場もない程、埋め尽くされ、散らばっている北西の賢者の居室。その中から数冊しかないであろう手掛かりの可能性を秘めた本を見つけ出すのはやっかいなことこの上なかった。
 
 
「よし! 今度こそ、今度こそ、これですじゃ!」
 シュザネが手を伸ばしたのは深緑の装丁がなされた本。引き抜いた途端に、こちゃこちゃとした道具類が本の表層から滑り落ちる。
シュザネが手にしているのは二十枚程のページからなる薄い本であった。しかし、薄いから大丈夫だろう、という甘い考えが外れることは最早目に見えていた。良く言えば、丁寧に丁寧に読みこむシュザネは、気になる記述を見つけると、本来の目的を忘れ、没頭し、似たような文献を探し出す。捜索当初から、読んだ本の数だけ繰り返されてきたことだ。
「一度、全部整理してから探した方が早いんじゃないか?」
 早速指で字の羅列を追って熟読し始めたシュザネに向かってシェラートは声をかけた。
魔法を使えば片づけることなど容易いだろう。ものの数分もかからないはずだ。
「省略してしまっては見落としてしまうものもあるのです。一つ一つ当たらなければ、通り過ぎてしまう。さすれば、もう一度行き交うまでにはいくつもの歳月が必要となるのですよ」
 的を射ているようで、だが、どこかが違う気がする。少なくともシュザネ自身は今しがた口にした言葉さえ、もう忘れているだろう。シュザネは、ただひたすら脇目もふらず文献を読み続ける。
 シェラートは、今日はもう何も言うまいと、本以外のものに手を付けることにした。ここにある本はそのほとんどがシェラートの読解できる域を超えているのだ。唯一拾えるのは、なぜか紛れ込んでいる絵本の中の極簡単な単語だけである。手掛かりとなりそうな難解な本は、探そうにも探すことなどできはしない。
 そうこうしているうちに、西日が部屋の中央まで差し込み始めた。空気中に舞い上がっている塵までもが、光に反射してキラキラと黄金に輝く。
 何の前触れもなく、シュザネがふと本から顔を上げた。
しかし、シェラートはシュザネの突飛な行動にも疾うに慣れてしまっていた。この時間帯にシュザネが言い出すことは、ただ一つである。
「シェラート殿、酒場に行きませぬか」
「またか!」
「明日はテト殿も学校が休日ですから良いではないですか」
 シュザネは期待に充ち溢れた瞳でシェラートの返答を待った。けれども、シェラートが無視して散らばったままになっていたインクペンを拾い始めたので、シュザネは言葉を連ねた。
「なんと今日は行きつけの酒場の近くで宵の歌姫の舞台が催されるのですよ」
「なんだ。帰って来てるのか?」
 反応が返ってきたことに、シュザネはにんまりと笑みを深くする。
「ええ、そうです。昨日お帰りになったようですよ。皇宮に戻られるのは今夜、舞台を終えてからだとか。宵の歌姫の情報に関しては、皇都中駆け巡るのが早いですからね。昨夜仲間から仕入れてきたのですじゃ。きっと、いや、絶対にテト殿も喜びますよ!!」
 ふよふよと浮いていたインクペンは陽光に照らされて緋色に染まる。そのまま集められて銀細工の箱の中へと納められた。
 シュザネは水色の瞳をすがめて、白い髭を撫でた。ひょいと片眉を上げて見せた後、北西の賢者は、ふぉっふぉっふぉっと満足そうに笑い声を響かせたのだった。
 
 
 
 
 
 

(c)aruhi 2009