ラピスラズリのかけら 5:継がる名 9 夕星の灯し風【2】

 

「なんだか雨が降りそうだな」
 
 見渡す限りの空には、どんよりと厚い雲が広がっている。灰よりも黒に近い色からは今にも雫が零れ落ちてきそうだった。
今朝まではあんなに晴れてたのに、とフィシュアが呟けば、隣を歩いていた青年は「そうだね」と相槌を打つ。
「ほら、ナディール(季節風)が吹く季節は天候が変わりやすいから」
 青年の言う通り、この場所から見えるものは全てが風で揺れている。皇宮の建物内でも外気を遮断する壁がない外廊下を進んでいた青年の短い薄茶の髪も風を受けてそよいでいた。フィシュアは、自身も風で流れてしまって邪魔な横髪を耳に掛け直しながら、もう一度、暗い昼間の空を見上げた。
 目線の先にあるのは、ただ一つ揺らぎを見せていない曇天の空。
きっと上空にはここよりも強い風が吹いているはずだ。天候の移り変わりが激しいのは、風が次から次へと大気を動かす為である。だから、雲の流れも実のところはとても速いのだろう。それでも、ちっとも雲が動いているように見えないのは、どこまでも同じ暗色が青い空を覆い尽くしているからにすぎない。
「このまま雨が降ってくれると助かるんだけどね」
 同じように空を見上げていた青年の濃い藍の双眸には、少しばかりの苦さが滲む。彼が何を想ってそう漏らしたのか、心当たりのあるフィシュアは向き直って青年を見上げた。
「でも、ルディが見回りを強化したおかげで火点けは大分減ってきたじゃない」
「完全になくならないと意味ないよ」
 拗ねたようにそう言った二歳下の弟の頬をフィシュアはぺしぺしと掌で叩いた。
「そんな顔しないの、ルディ。減ってきたという事実を喜びなさい。あなたの成果よ」
「うん、ありがとう」
 素直に打ち笑ったルディへ、フィシュアは「よろしい」と満足げに返して、彼の頬から手を離す。
 実際に皇都を騒がせ続けてきた火点けも、それに伴う物盗りも、三か月前と比べれば発生数も被害額も格段と減って、ようやく落ち着いてきたのだ。この功績はひとえにルディの的確な指示と機動力であるとフィシュアは感じていた。火点けが起こったとしても、被害が拡大する前であるぼや程度の段階で、見回り中の警備隊が火事を発見したり、鎮火の手伝いをして、被害を押さえてきたことが成果をあげている大きな理由だ。
ルディの左手首に嵌められているラピスラズリの埋め込まれた腕輪。フィシュアが宵の歌姫としての役目を持つように、フィストゥス(五番目の皇子)であるルディも皇都警備隊の管轄権と役目を持つ。同じフィス(五)という数字を持つ者としても、警備隊に関わりのある宵闇の姫としても、いくらか幼かったルディの仕事を手伝い、補ってきたが、今ではその必要もなくなってきてしまった。
一年前までは確かに並んでいたはずの背も、今となっては、ほんの少しだけ彼の方が高い。少年の翳を残していた顔も、すっかり青年のものに変わってしまいつつある。何よりも毎日の鍛錬の賜か、腰に佩いた長剣が何の違和感もなく納まっていることをフィシュアはどこか感慨深く思った。
「本当に大きくなっちゃって……」
「何それ。急にどうしたの?」
「今度、手合わせでもしたら負けちゃいそうだなと思って」
 それはまだちょっと嫌だ、と弟から視線をずらしたフィシュアは、また歩を進め始める。一歩遅れて彼女の後に続いたルディは「うん、今度こそ絶対フィシュアに勝つからね」と自信ありげに宣言したのだ。
 
 
 あれ? とフィシュアは庭に目を向けて首を傾げた。ルディに「ちょっと待ってて」と言い残すと、そのまま外廊の端の手すりに駆け寄り、眼下へ声を掛ける。
「テトに、シェラート? それにロシュまで……みんなで何してるの?」
 三人が三人して長剣を手にしている。テトにはまだ剣が重すぎるのか鞘にはまったままの剣先は地面についていたが、シェラートとロシュは鞘から抜き放った剣の切っ先を互いに向け合い、相対していた。
 テトもそうだが、シェラートが長剣を持っているところなどフィシュアは一度も見たことがない。何だか変な組み合わせに、フィシュアは身を乗り出して下を覗きこんだまま首を捻った。
「シェラートって剣、使えたの?」
「いや、使えない」
 すぐさま返ってきたシェラートからの否定の言葉に、「じゃあ、それは何よ」とフィシュアは訝しげに問う。
 何って言われてもなぁ、とちらと向けられたシェラートの視線を受け、ロシュが朗らかに答えを繋いだ。
「とても暇そうだったので、私がお誘いしたんですよ。私が剣術をお教えする代わりに、対魔法の戦術でも考えようと思って、シェラート殿には剣と魔法を使っていただいているんです」
 暇ってなぁ、とシェラートは抗議を向けたが、ロシュは「暇そうでしたよ」と受け流し、テトに至っては「そうなんだ、だから教えてもらってるの!」と元気よく答えた。
「へー、面白そう。ね、私も―――」
「駄目です」
 フィシュアは自分も仲間に入れてもらおうと口を開いたが、言い終わらないうちにロシュからすげなく断られた。むっと顔をしかめて睨みつけても、ロシュは素知らぬ顔で譲る気配はない。
「何で」
 納得がいかない、とフィシュアが尋ねれば、ロシュは「当り前でしょう」と応じた。
「フィシュア様は手を抜けないでしょう? あなたが入ったら、ほとんどの対戦相手は死にますよ。せめて剣術の心得のある者じゃないと無理です。切り上げる引き際の見極めが難しいですからね。お暇なら御一人で手を抜く練習でもしていてください」
 フィシュアは、ぐっと黙り込んだ。ロシュが言っていることは正論でもある。
剣術の教えを請うた彼女自身が、まず第一として望んだことが、より早く実戦で役に立てるよう強くなることだった。急所を狙えば、弱い力でも相手に打撃を与えることができる。だからこそ、徹底的に人体のあらゆる急所を叩きこまれたのだ。けれども、年中“宵の歌姫”として旅をしているフィシュアは、剣術を磨く時間数が圧倒的に少ない。その限りある時間さえ、他の技術を学ぶよりも、習った技術を繰り返し体に覚えさせることにしか割いていなかった。フィシュアが今までに手合わせをしてきたのは、師であるロシュと、かかってきた敵、それから、剣術を得意とする兄弟たちだけである。
 だが、諦めきれなかったフィシュアは、「けち」と口だけを動かして不服さを告げた。庭にいる三人を羨ましそうに眺め、溜息をつく。
「大体、私とは違ってフィシュア様はこれからお仕事があるのでしょう? お仕事が」
 わざとらしい繰り返しに、フィシュアは皇宮に戻ってくる前に昨夜、酒場で執り行ったロシュとの飲み比べでの賭けの対象を思い返した。
「……まさか、そのことを根に持ってるのか?」
「まさか」
 ロシュは相も変わらずにこやかに答えたが、空色の双眸だけは冷え冷えとしていた。
「嘘は言ってない。賭けの対象はロシュの休暇だけだっただろう? 私の分は入っていない。それに、今日の会議のことは知らなかったんだから、しょうがないじゃないか」
「ええ、しょうがありませんね。仕方がないことです。だから、諦めてくださいね」
 反論を許さぬ言葉に、フィシュアは今度こそ完全に口を噤んだ。庭に降りていきたいのは山々なのだが、降りたとしてもここに居られるのは結局のところ、せいぜい十数分程度なのだ。
「後で、会議が、終わってから、は……?」
 ちらりと三人を順に見やると、目があったテトが嬉しそうに頷いた。
「うん、待っとくよ、フィシュア。だから、早く帰ってきてね!」
 片手を挙げて、ぶんぶんと手を振ってくる栗毛の少年に、フィシュアは、ほっと安堵の笑みを浮かべた。「できるだけ早く戻って来るから」と告げて、フィシュアは、手摺から手を離す。
 
―――と、急に動いた気配に、フィシュアは素早く背後へと振り返った。
 ガキンと金属がかち合う鈍い音と共に、彼女の名を呼ぶテトの悲鳴が上がる。
 寸でのところで長剣の襲撃を防いだフィシュアは、だが、かかって来る圧力に限界を感じてもいた。襲ってきたのは茶髪の男。相当鍛えられていると瞬時に分かる程の体躯を持っている上、その彼の渾身の力をフィシュア側が下になって受け止めているのだ。せめて、自分の方が上方から受け止めていたなら、また話も違っていただろうが、どう考えても、こちらの分が悪かった。
軽く舌打ちをし、力の均衡が崩れる前にとフィシュアは腰に帯びたままになっている鞘を引き抜いて、目の前の男の左腹部に向かって投げつける。男の意識が鞘の方へとそれた一瞬の隙を付き、右肩をめがけてフィシュアは自身の剣を打ち下ろした。
 けれども、当たるかに思われたフィシュアの剣は、相手の長剣によって難なく受け止められた。茶髪の男は、深い色の双眸をすがめつつ、にやりと楽しそうに口元を歪め、足払いを掛ける。
フィシュアは、よける為にさっと後方へと退いたが、それも彼の予想の範疇だったらしい。わずかの隙も開けることもなく、むしろ詰められた間合いを計って、次いで繰り出されるだろう衝撃に備え、フィシュアは構えの方を取ることにした。
 しかし、微かに曲げた膝は、そのままふわりと浮いた。予想外の浮遊感に、フィシュアは瞠目する。
「えっ、ええっ、えええっ!?」
 すぐ傍にある茶交じりの黒髪と、険を宿した横顔。
先程まで居た外廊からは離れ、上から見ていたはずの緑の景色が真横に広がる。
 ナディール(季節風)とはまた違った、そして、ナディール(季節風)も遠く及ばないであろう強靭な風が、自分の居る場所を中心に半円状に薙いでいくのをフィシュアは感じた。
外廊に位置したままの男は、打ち合っていた相手が一瞬で移動したことに驚きながらも、自身の剣を手前に掲げた。男を貫くはずだった風の刃は、けれど、彼の茶の髪を揺らすこともなく何故か到達する前にピタリと凪いで消えた。
 呆然と眺めていたフィシュアだったが、「弾かれたか」という何とも忌々しげな低い声音に我を取り戻した。
 空いている方の手を使って次なる攻撃を繰り出そうとしているシェラートに気付き、フィシュアは、慌てて彼の腕を掴んだ。
「―――わっと、ちょっと、待った、シェラート!」
「はっ……って、おいっ!?」
 抱きあげられていた態勢のまま勢いよくシェラートの腕へと、自身の両手で必死に掴みかかったフィシュアは、当然ながら重力に逆らえるはずもなく大きく傾いだ。落ちそうになったフィシュアをシェラートは危ういところで抱えなおしながら、少し上に位置するフィシュアの方を睨み上げて「危ないだろ!」と叱咤する。
「大体どうして皇宮内でまで襲われてるんだ!」
「いや、えっとね、襲われてるわけじゃなくて、ね」
「今、まさに襲われてただろうが!!」
 目の前のシェラートの怒りようは、なんだかとっても見覚えがある。とにかく誤解を解かなければ怒鳴り倒されそうだ、と思い至り、フィシュアは小さく唸った。
 なんとか落ち着いてもらおうと、シェラートの肩を軽く「落ち着いて」と叩いてみる。しかし、あまり効果は無かったらしい。
シェラートのすぐ傍では、テトまでもが同様に怒りを宿して、外廊の男を睨みつけていた。ならロシュにと、目をやってみれば、微笑を浮かべたまま目をそらされる。どうやら、ロシュが賭けのことに対して相当根に持っているらしいことは明らかだった。
 他に法もないので、結局フィシュアは自身でシェラートへの説得を試みることにした。
「えっと、シェラート? 助けてくれて本当に、本当にっ、ありがたいんだけど、ね……?」
 警戒を崩そうとしないシェラートに戸惑いつつ、フィシュアは口を開いた。真実を告げても怒られそうなので、なんだかとても気が重い。
「あれ、一応、私の兄で、トゥッシトゥス(三番目の皇子)なのよ」
 そう言ってフィシュアは、外廊に佇んで傍観に徹し始めたらしい男を指差して示した。
 テトとシェラートが同時に頓狂な声を上げて、フィシュアを見る。フィシュアは、本当だとでも言うように彼らに向かって深く頷いて肯定した。なおも疑わしげな表情を隠しもせず、テトとシェラートはそろって、フィシュアとその兄だという人物を交互に見比べた。
 手摺に腕を置いて寄りかかり、こちらへ向かって機嫌よく手まで振り出した男は、離れた位置から見てもなんとも可笑しそうだ。どうやら妹が困っていることが見て取れて相当喜んでいるらしい。
兄の様子に気付いたフィシュアは、頭痛がし始めそうなこめかみを手で押さえて、長く長く溜息を吐いた。
 
 
 

(c)aruhi 2009