ラピスラズリのかけら 5:継がる名 11 燃ゆる焦げ跡【1】

 

さっき見上げた星たちは
今にも落ちてしまいそうで
せめて自分は落とさぬようにと
固く目を閉じ暗い星空を留める
 
闇には何も光らぬはずなのに
それは酷く光って見えて
それがとても怖かったから
瞼を押し上げ夜空を眺めた
 
それでも手を伸ばしてしまうのは
きっと届かないと知っているからで 
届かないからこそ遠くから眺めるそれは
いつまでも切なく響くのでしょう
 
だから私が再び瞳を閉じるとき
せめて行方をこの胸に託して
それと分からぬようにそっと撫ぜる
 
 
 
「フィシュアの歌声って綺麗になったわよねぇ」
 トン、とすじ肉の煮物が盛りつけられた小皿が脇に置かれる。小皿を運んできた給仕の女は、そのまま椅子を引くとロシュの隣に腰を下ろした。同じく持ってきていたらしい瓶から杯へと自ら冷水を注ぎ入れる。
「ツィルタ、いいんですか、堂々とさぼって」
「だって、フィシュアの歌が始まったら注文する人っていないじゃない。だから、休憩。私だってちゃんと聴きたいもの」
「そうなんですか」
「そうよ、当り前でしょう?」
 ロシュが苦笑すると、ツィルタはにやりと笑み返す。目線だけは舞台に向け、彼女は早速すじ肉をつつき出した。
 ほら、とツィルタは口に入れた肉を片頬に追いやると、再びロシュに話しかけ始める。
「昔から綺麗な歌声ではあったけどさ、張りが出て来たと言うか……フィシュアに代替わりしたばっかりの時はみんな結構戸惑ってたじゃない? でも、ここにいるみんなが聴きに来てるのはフィシュアの歌だもの。今じゃ、もうフィシュアの歌を聴いてイリアナ様の歌を思い出す人なんていやしないと思うよ」
 だって、どちらも個々で全然違う。どちらも綺麗だけど違うのよ。比べられるものじゃない、とツィルタは続けて言った。
「イリアナ様のが視界いっぱい、無数に、だけど、微かに瞬いてる星だとしたら、フィシュアのはたった一つだけで強く光ってる明星なの。どっちも星は星だけど、綺麗だけど、違う……って、これじゃ意味分かんないね」
 ツィルタは眉間に皺を寄せ、何かもっと良い的確な表現がないかと模索する。ロシュは、「あぁー」と相槌を打って同意した。
「それ、私にも何となく分かりますよ。ツィルタみたいに先代の歌はあまり聴いたことはありませんが、鈴で言うなれば、先代のはころころと鳴るんですよね。けれど、鳴り続けていても音色が美しいから聴き飽きない。フィシュア様のは一度だけ、リンと響くように鳴る。だから、皆聞き逃さないように耳を澄ます。同じ歌のはずなのに、性質は正反対。そういうことでしょう?」
「そう!」
 ツィルタは自分の思っていたことが思っている通りに伝わったことがよほど嬉しいらしい。「そうなのよ!」と、すじ肉のかけらが突き刺さったままのフォークを、勢いよくビシッとロシュに向けた。その後に、満足したように肉片を口に運ぶ。
 ツィルタはこの店の主人の娘だ。ロシュと同年でもある彼女は、やはり、同じ頃からフィシュアを見てきている。ロシュが身内からの視点であるならば、ツィルタは客からの視点。年中フィシュアについて回っているロシュが彼女の歌の些細な変化に気が付くならば、皇都でしかフィシュアの舞台を目にしていないツィルタは年ごと、月ごとの大きな変化、だが、確実に移り変わっていった彼女の歌の特徴に気付く。
 こちらも、同様のものを持ちながら、全く異なった性質を持った者同士であった。それでも、より長く“宵の歌姫”を見てきたのは、店員であるツィルタの方である。先代のイリアナの歌については、ツィルタの方がよほど詳しい。“宵の歌姫”を見に来る客については、ロシュなど遠く及ばない。そのツィルタが、最早フィシュアとイリアナの歌を比べる者などいないと言うのならば、それ以外の何でもないのであろう。
「フィシュアは、とても頑張ったのねー……」
 ツィルタは頬杖をつきながら、しみじみと呟いた。台上で歌い続けているフィシュアを見る目は、穏やかで、暖かなものだ。
 ええ、とロシュは首肯する。
「フィシュア様はとっても頑張ってこられましたから」
 歌姫の護衛官は、そう遠くはない旅の始まりに想いを馳せる。
 あの時は大変だった。なぜなら、彼らは至極幼かったから。しかし、何よりも、前代の宵の歌姫であったイリアナの存在が大きすぎたのだ。それは、彼ら自身にとっても、周りの者にとっても。
 イリアナは稀代の歌姫と人々が称賛にするほど、歌に優れていた。彼女と共に旅をしていた吟遊詩人の力添えも大きく影響していたのだろう。イリアナは、いつも彼が弾く五つ弦を持つ楽器、ヒュンテにあわせて歌っていた。
 奏でられるヒュンテに載せた彼女の歌は例えようのないものだったと、今でも語られるほどである。
ロシュは指で数えるほどでしかないが、それでも、イリアナの歌を聴かせてもらったことがあるから分かる。
 彼らが作り出す奏では自然そのものだった。川のせせらぎであり、風が揺らす葉擦れであり、陽だまりの光であり、小さな星の瞬きである。自ずと耳に入っていた、というような感覚をもたらす。聴くのではなく、気付いた時には聴こえていた歌なのだ。
 対して、フィシュアの歌は停滞していた大気を動かすような歌であった。結果的に風がそよぐ。だが、それは人の手によってつくりだされたもので、それ故に少なからず生じた違和感が否めない。イリアナの歌に慣れ親しんでいた者にとってはそうであったのだ。
 皇都は良かった。宵の歌姫が拠点としている皇都の住人にしてみれば、宵の歌姫とは身内のような間柄である。イリアナについて来て歌う次代の歌姫の姿も目にしていた。彼らは幼いフィシュアを娘のような存在として可愛がっていた。だから、代替わりとなった時も、優しく見守って励ましてくれたのだ。
 しかし、一歩皇都を出れば、そうはいかない。皆、あからさまに眉をひそめる。歌の途中で席を立つ者も一人や二人ではない。それだけならばまだしも、彼らの不平不満は全て幼すぎたフィシュアに降りかかった。野次だけでなく時には物も飛んで来た。年齢など関係ない。彼らは、“宵の歌姫”の歌を聴きに来た“客”であったのだから。
それでも、ロシュは舞台に上がったフィシュアを助けるわけにはいかなかった。
 歌うことが大好きだった女の子が、歌いたくないと泣き喚いても、ロシュには無理矢理舞台に引きずり上げるしかできることなどなかったのだ。ただ、傍にいて見ているだけ。一緒に旅をして、一緒に旅をさせて。観客の視線に怯えながら歌うフィシュアをずっと見ていただけだったのだ。
 宵の歌姫の名は代々継がれるもの。
 それでも、今の評判はフィシュアが苦労してようやく作り上げてきたものなのだ。名など関係ない。歌姫として名を馳せたのは、宵の歌姫ではなく、フィシュア自身である。宵の歌姫の名を耳にすれば、人々が親切にしてくれたり、贈り物をくれたりするのは、全て彼女が尊敬に値する定評を勝ち取った結果である。彼女の人柄があったこそ成し得たものである。
 そのことをロシュは身に沁み入る程に深く、痛く、知っていた。
 だからこそ、彼は今日までフィシュアに付き従って支えてきたのだ。いつでも、彼の主の為に付き従って支えて行くと決めたのだ。
「フィシュア様はとても頑張っていますから」
 ロシュは微笑みながら、歌声を響かせる彼女を見やる。それをツィルタはまじまじと眺めてから、「ロシュもね」とカラカラと笑った。
 
 
 
願いを叶えてください 我が意に沿わぬ願いを
 
誰もが幸せになるなど 願う価値すらありません
君の幸せを願うほど 無邪気でなんていられません
 
だけれど自分の幸せを乞い願うなら
それでもいいとは思いませんか
 
我が最も望みしものは 我が望みが叶わないこと
だからどうかたった一つだけ 我が願いを叶えてください
 
そうしたらきっと それで終わり
 
 
 
 フィシュアが異臭に勘付いたのは、次の歌を歌おうと深く息を吸い込んだその時だった。だが、歌う代わりに、息を潜める。鼻をひくつかせてみて、気のせいではないと悟る。鼻を突く匂いである。なんだか焦げくさい。そこまで、辿り着いたフィシュアは総毛だった。
「ロシュっ!」 
 名を呼ばれた護衛官もすぐに異変に気付き、彼女の命に頷きを返す。
 考えるまでもない、火事である。
ざわざわとし始めた店内の客へ落ち着くように言い、店員と協力して集まっている人々を表へと出るよう促す。
ここは小料理を出す店である。出火があるとしたら、調理室であろう。事件性のある――つまり、ここ数カ月皇都を騒がし続けている火点けであるとしたら、人気のない裏手を狙うはずである。
そう結論付けたフィシュアは客の流れとは逆に店の奥に向かおうとする。だが、向かうよりも前に奥からひょっこりと顔を出した店員の男に行き遭った。男は騒然となっている店内に目を丸くさせて「一体どうしたんだ?」とフィシュアに尋ねた。「火事が」と答えかけ、だが、はたと気付いてフィシュアは逆に男へと問いただした。
「奥は何ともなかったの!?」
「ああ、別に何ともなかったぞ。いたのも俺一人だ。急に騒がしくなったから、来てみたんだ。それより、火事ならさっさと出よう」
 言葉の後半がフィシュアの耳を素通りする。「ええ」と無意識で頷きつつも、訝しさが拭えない。
火事を知らせに来たのかと思った男は、火事の存在を知らなかった。ということは、奥では火が上がっていないと言うこと。そして、ここにも火の気はない。
考えている内に、フィシュアは煙が立ち込めていないことに始めて気が付いた。これだけ、異臭がしているのになぜ。
しかし、その思考も中途で断ち切られる。
フィシュアは横に立つ男の腕を引き、手近にあった椅子を引っ掴んで、突然襲いかかってきた者に向かって椅子を投げつけた。離れていた場所にいたロシュも短剣を引き抜き、襲撃者に投げやり応戦する。
 顔を隠そうともしていない襲撃者の男は、寸での所で短剣を避け、後ずさった。両眼の下にそれぞれ皺が出来ているが、年を取っていると言う訳ではない。中年に入るいくらか手前という年頃の男はふと口元を皮肉気に歪める。抜き放っていた長剣を腰元の鞘に収めたかと思うと、そのまま店内を横切って窓を破り、勢いよく外に飛び出して行った。
 襲撃者が取った理解不能な行動に尻もちを付いていた店員の男はぽかんと口を開けて彼を見送った。反対に、フィシュアとロシュはより用心を深める。けれど、いくら辺りに気を配らせても何も起こりはしない。
「何なんだ?」
 フィシュアは焦げ臭いのに、煙のない店内を見渡した。残っている客はもう残り少ない。嫌な予感は消えないのだが、動かない訳にもいかなかった。床に座って唖然としたままの店員に、ロシュが手を貸して助け起こす。とりあえず、いったん外に出て状況を確認した方がよさそうだとフィシュアとロシュは目配せをして、互いに頷きあった。
 だが次の瞬間、顔を険しくさせたロシュは、傍にあったフィシュアと店員の男を突き飛ばした。フィシュアは突然のことに受け身すら取れず、板張りの床に全身をしたたか打ちつける。痛さに漏れた呻きは、けれどもフィシュアの耳にすら届かなかった。代わりに、彼女の聴覚を支配したのは激しい轟音。落雷を受けた大木が衝撃に耐えきれず爆ぜ折れるように軋みを上げ、店全体が揺れる程の轟きが響き渡る。
 何が起こったのかを解するよりも先にフィシュアの周りは猛火に包まれていた。てらてらと赤橙の炎が燃え、店内は不気味なくらい輝かしい光に充ち溢れる。早くも触手に捕らえられ、炭へと変わり始めた店を支える材が、崩れてはパラパラと天井から火の粉を降り撒いてきた。
 気を失いそうな熱にフィシュアはむせかえった。先程までとは打って変わってもうもうと煙が立ち込めている。それでも、視界はまだ先が見えぬほどには悪くはない。自身の長剣を支えに片膝を付いている従者の名をフィシュアは叫び混じりに呼んだ。
「……ご、無事ですか?」
 苦痛に歪んでいた顔を、辛うじて笑みにかえ、ロシュは問いかける。弱々しいながらも、落ち着いた声は、震えを一切含まない。けれども、フィシュアは息を詰まらせて、言葉を発することなどできなかった。頷くことさえままならない。足に力が入らない。
 フィシュアは愕然とした。それほどまでに、ロシュが横腹に負っている傷は深かった。折れた柱の一部が深々と突き刺さり、とめどなく溢れ出る血は周りを照らす赤よりもなお鮮やかに紅い。
「生き残りたいなら思考を止めるな、……そう教えたはずでしょう?」
 静かに叱咤してきた剣の師の空色の双眸に、フィシュアはなんとか微かな頷きを返す。瞳にはまだ強い光がある。まだ大丈夫。まだ、大丈夫だ。言い聞かせて、フィシュアは立ち上がると、ロシュに駆け寄った。止められるよりも先に、彼に突き刺さっている木片に自身の両手を押し当てて、燃え移りちろちろと木を舐めはじめていた火を消し止めにかかる。嫌な音がして掌に痛みが走った。刺さっている木片を引き抜くことはできない。そうしたら、全てが零れ落ちる。
 咎めてくる目線を無視して、フィシュアは「歩けるか?」とだけ問う。「当り前です」と強く断じたロシュの声音に、彼女は自分を安心させた。
店員の男もすぐにロシュの状態に気付き、肩を貸す。扉よりも、先ほどの男が割って飛び出て行った窓の方が近い。窓を完全に叩き割ってから、追いかけてくる炎から逃れるように外へと這い出る。
煙と熱気が多く入り混じっては入るが、新鮮な空気も三人の肺を満たす。火の粉が飛んで来ないくらいに離れて、開いた場所にようやくロシュを横たえる。崩れ落ちかけた店の外には、全身のあらゆる場所を炭で黒くさせた面々が集まっていた。火が取り巻く前に外に免れた人たちも皆一様に疲れた顔をしている。
巡回中だったのだろう。警備隊もすでに出動していて、火消し衆を手伝ったり、負傷者救護に当たったりと慌ただしく動いている。この調子なら、すぐにルディにも知らせが行くだろう。
「ロシュ……」
「大丈夫ですから、私に謝らせて下さいね。また、このような失態を犯してしまって申し訳ありません」
 ロシュがいつも通り朗らかに言ったので、フィシュアはふるふると首を振った。麻痺してしまっているのか火傷を負っているはずの両の掌は痛みを感じない。それよりも、寄せすぎた眉間の方が痛かった。
災厄を振り払うように、フィシュアは高く伸びた煙を巻き込んでゆく空を見上げた。
「ホーク、近くにいるか?」
 フィシュアの呼び掛けに応じて、鳥の長く響く鳴き声が返って来る。見渡していた方角からではなく、フィシュアの背後からホークはやって来た。こんな時でも優雅に地に降りたったホークにフィシュアは表情を緩ませた。
 ホークは寝かされているロシュに目を向けはしたものの、すぐにフィシュアへと視線を戻した。いつもよりも更に呆れられたような気がして、ロシュは自嘲を刻む。
「ホーク、兄様にも一応知ら……」
 途切れた言葉に、ホークは首を傾げた。ロシュも訝しげに、フィシュアを見上げる。
 行き交う人の波でごった返している通りをフィシュアは見据えていた。何かが引っかかったのだ。懸命に目を凝らして、それが何だったのかを探す。と、目に飛び込んできたものに、フィシュアは血相を変えた。
「ホーク、兄様に知らせを! ロシュ、これ借りる!」
 それだけ言い終えると、フィシュアはロシュの了承も得ずに短剣を手にして、一つの方向に駆け出して行った。
 
「ああ、もう、あの人はっ!」
 こんな時くらい大人しく休ませて下さいよと、悪態をつきながらも、ロシュは刺さっている木片の先をへし折る。激痛が走って、噛み過ぎた奥歯がこすれて音を立てる。意味はあまりないと分かってはいるが、服を割いて簡単な血止めを残った木片の上から施す。
上下する肩を、息を、整え、長剣を支えに立ち上がると、ロシュは彼の同僚を見やった。
「―――ホークは命通り、オギハ様の所へ。フィシュア様の方、は、ちゃんと私が追いかけます、からっ……」
 主の消えた先を睨んで立つ男に視線を投げ、ホークは飛び立つ。舞い上がる際に、片方の羽でロシュの肩へと一度触れてからホークは空高く離れた。
「……はい、……頑張りますよ……」
 深く息をついてから、ロシュは地を蹴った。速く走ることなどできやしない。それでも、できうる限り最速で駆けねばならなかったのだ。
 なんとか『間に合えばいい』ではなくて、なんとしても『間に合わせなければ』意味がないのだ。
 他の火点けがどうであったかなど知らないし、見当もつかない。だが、今回に限っては、狙われたのが彼女であったことは間違いなさそうであった。
 なぜなら、火が爆ぜる前、襲ってきた輩は他の者には目もくれずフィシュアだけを狙っていたのだから。そして、たった今、きっと何かを捉えたからこそ、彼女は走り去ってしまったのだから。
 
 それが、きっと罠であると彼女はまだ気付いてはいない。
 
 
 
 

(c)aruhi 2009