ラピスラズリのかけら 5:継がる名 12 燃ゆる焦げ跡【2】

 

「……ど、うして、あなたがここにいるの?」
 
 問われた男は、辺りを占め始めている夜と同様に静寂な表情で微笑む。とても優しく、とても柔和に。
「どうして?」
 小首すら傾げず、逆に問い返しながら、彼はフィシュアの頭の頂を軽くニ、三撫でた。
「別にどこにいたっておかしくはないだろう? 捕らえられたわけでもないのだから」
 それは君がよく知っているはず、と囁く男を、フィシュアは瞬きすらできずにじっと見つめる。髪を伝ってするりと落ちて頬にあてられた掌はかつて大きいと思っていたもの。手つきも、声も、笑みも何も変わらない。幼かった頃の記憶の中と一つとして違うところはなかった。
「大きくなったね、ディーオ・トリア(小さな姫君)」
 自身の頬を何度も擦り行く親指の腹をどこか遠くで感じながら、彼女は呆然と昔を懐かしむ男の声を聞いていた。
 
 
***
 
 
「なんだ?」
 シェラートは窓の外を見た。北西の賢者が住まう塔の上、ここから見える皇都は既に夕暮れの終わりが窺える。ついさっきまで少量残っていた陽の色も今では消え、代わりに薄闇がひしめく。空だけがラピスラズリの濃い藍を鮮やかに広げているせいか、地上も天上も暗さは変わらないはずなのに妙に明るく見えた。
 ふいに発せられたシェラートの呟きに、テトは文字を書く手を止めて「どうしたの?」と尋ねる。いくら片付けても一向に片付いた様子のない本や物たち。それらの一部を脇へと押しやって、ようやく開けられた机の空間で勉強をするのがテトのこのところの日課だった。加えて、今日は週のちょうど中間である。シュザネの行きつけの酒場が店休日であるこの日は、陽が暮れてからも北西の賢者は黙々と作業をさせられていた。相も変わらず、本を広げては彼が片づけ出す気配はなかったのだが。
 シェラートは、インクペンを手にしたまま不思議そうな顔で見上げてくるテトを見返した。
「ああ、別に大したことじゃないんだけどな。今、どこかで魔力がはじけた。多分皇都のどこかでジン(魔人)同士が諍いでも起こしてるんだろう」
「それって大丈夫なの?」
「この程度なら特に問題ない。よくあることだからな、珍しくはない。悪かったなテト、邪魔した」
 シェラートがテトの栗色の髪を掻き撫でると、テトは顔を綻ばせて、「ううん」と元気よく首を振った。テトは机上で手を組み合せて伸びをし、「よし!」と気合を入れてから、紙の束に向き直る。時折突っかかりながらも、テトはさらさらと新たな文字列を生み出して行く。シェラートはそれを眺めながら、けれど、思い出したことがあって少年から目を離した。
「そういえばシュザネ、フィシュア達のラピスラズリだけどな、あれほとんど魔力は残ってなかったぞ。確認できたのは二つだけだが、どっちも変わらないみたいだった」
 ラピスラズリはもともと魔力を遮断する効果を持っている。だから、魔力が消えているのも仕方がないだろうと、シェラートは皇家のラピスラズリに残ってる魔力を探ってみて思ったのだ。このことを仮説を立ててくれたシュザネに報告しておいた方がいいだろうとも。少なくともトゥッシトゥス(三番目の皇子)とフィストリア(五番目の姫)のラピスラズリからランジュールの魔力の全貌を読み取ることは不可能だ。
 けれども、一向に返ってこない答えに、シェラートは首を捻る。シュザネが夢中で本にかじりついている時、彼が話を耳半分にしか聞いていないのは知っている。だが、常なら返事はすぐに返ってくる。無意識で紡がれる言葉でしかないにしてもだ。
「シュザネ?」
 シェラートが名を呼んで問いかける。テトもまたペンを動かす手を休めて、シュザネの方を見た。
 項をめくる途中で手を停止させていたシュザネは何かを見極めるようにすっと目を細めると、ゆっくりとシェラートへに向き直った。
「―――シェラート殿。それが、どこか場所が分かりますかな?」
「場所?」
「ジン(魔人)の魔力がはじけたという場所です」
 硬い表情と声でシュザネは問う。どこか緊張感まではらませている北西の賢者をシェラートは訝しくは感じたが、特に隠すことでもないだろうと、ためらいもせずに一つの方向を指差した。
「あそこだ。北の方にある広場の先。ちょうどあの奥まった部分だな」
 シュザネは瞬時にして窓の傍まで転移すると、シェラートの示した場所をしかと見据えた。
「一体どうしたんだ?」
「所用ができました故、片づけはまた後日」
 シェラートは尋ねてみたが、返って来たのは答えではなく切迫した報告の言葉だけだった。言葉の半ばで消えてしまったシュザネに、部屋に残された二人は唖然とする。
どうしたんだろうね、とテトはシュザネが立っていた場所を見ながら首を傾げた。
「さあな」
 シェラートは片づけを再開しようと一冊の本を手に取った。だが、部屋の主がいないのに留まるのも気が引ける。結局、彼らは互いに顔を見合わせると自分たちの部屋に戻ることに決めた。
 
 彼らの背後。皇都を一望できる窓の端では、赤い光が煌々と薄闇を照らし始めていた。
 
 
 
 
「残念」
 フィシュアは短剣をジン(魔人)に向かって掲げ、口の端を上げた。
「悪いが、魔法は効かない」
 不敵に微笑む女を見ながら、ジン(魔人)の男は「らしいね」と溜息をついた。
 
 喧騒の中でフィシュアが目にしたのは、手首に絡んだ黒の紋様だった。一目でジン(魔人)のそれと分かるほど存在感を持った紋様の主は、先に入った皇都襲撃の情報に繋がっているかもしれない。そう踏んだフィシュアは、何をおいても先に彼を捕らえる事を選び、ジン(魔人)を追いかけて走り出した。
 火事の様子を見ようと赴いてきたらしい人々の波を逆流しながら、フィシュアは駆けた。途中で何度か見失いそうにはなったが、ついには人込みを抜けて開けたところに出た為、ジン(魔人)の姿を明確に捉えることができたのだ。
 フィシュアが開けた場所に足を踏み入れた瞬間、地に落ちていた石のつぶてが無数に宙へと浮かび上がったかと思うと真っ直ぐに彼女の方へと向かって飛んで来た。けれど、フィシュアに当たる寸前、石は見えない壁に当たったかのように弾かれると、そのまま全て地面と落ちてしまったのだ。
黄の双眸のジン(魔人)は一つも当たることなく、再び地面に転がっている石を無感動にちらりと見やる。
「でも、別にここから先は僕の役目じゃないしな」
 攻撃してきたにも関わらず、短剣を向けてくるフィシュアをジン(魔人)は興味なさそうに眺めた。次いで、その視線を彼女の後方へと向けると、ようやく顔に表情を映してのんびりと言った。
「あらら、大丈夫? 契約者殿」
 寸分もくるうことなくピタリと喉元に短剣の切っ先をつきつけられた男は驚いて目をぱちくりと瞬かせてから、ゆっくりと軽く両手を上げる。
 フィシュアは、後ろ手に剣をあてがったまま、目の前のジン(魔人)から目を逸らすことなく、鋭く口を切った。
「動くな。お前も大人しく掴まれ。そうしたら主人は生かしておいてやろう」
「別に僕はどっちでもいいんだけど。契約者殿はどちらがいいのかな?」
 ジン(魔人)の黄の双眸は脅しをかけてくるフィシュアには向けられず、彼女の背後の人物に注がれていた。
「困ったな。殺されたくはないのだが。いつの間にこんな物騒な物を振りまわすようになったんだい?」
 少しも怯えてはいない声は、穏やかにそう告げる。
 聞き覚えのある男の声に、耳を疑ったのはフィシュアの方だった。ジン(魔人)と相対してることすら忘れ、恐々と背後を振り返る。
「……ど、うして、あなたがここにいるの?」
「どうして?」
 フィシュアの目の前に立つ男は、喉元からわずかにずれた切っ先を指先でつまんで、そのまま剣を取り下げた。男の手に軽く髪を撫でられ、フィシュアは思わず首を竦める。
「別にどこにいたっておかしくはないだろう? 捕らえられたわけでもないのだから」
 耳元に寄せられた男の口は「それは君がよく知っているはず」と静かに囁く。ふるりと体が震えてしまったのは、恐怖からではなく生理的な嫌悪感からなのだとフィシュアは思いたかった。
 それでも、震えただけで硬直してしまった体では、首すら動すらことができない。フィシュアは言葉を失ったまま、男を見上げていた。
 頬に移された男の掌は、指の腹でゆっくりとフィシュアの頬を撫ぜゆく。
「大きくなったね、ディーオ・トリア(小さな姫君)」
 紺色の一対の瞳が昔を懐かしむように、なお一層柔らかくなる。茶の髪は薄闇に埋もれて黒に見えた。
「ナイデル、候……」
「そう。久しぶりだね」
 ナイデルはフィシュアの頬を撫ぜる手を止めた。彼女の片頬を包んだまま、もう一方の頬に口付ける。それも以前と変わらず、とても柔らかくて、温かくて―――昔は大好きだったのだ。この男のことも。
 だから、フィシュアは顔を歪ませた。泣きそうになるのをこらえて、ナイデルを睨んだ。先程と同じ問いを、今度はしっかりとした口調を心掛けて繰り返す。
「どうして、あなたがここにいるの?」
「私が、じゃないよ。ディーオ・トリアがここに来てくれたんだ。ジン(魔人)を見れば、きっと追いかけてくるだろうと思ってた。知ってたかい? ジン(魔人)を、紋様を見ただけで正確に見分けることができるのは皇族だけなんだよ?」
「嘘」
 そんな話聞いたことがない。黒の紋様を見れば、その複雑過ぎる紋様ゆえにジン(魔人)だと誰でも分かるはずだ。
 けれども、フィシュアの脳裏を今の今まで忘れていた言葉が急にかすめた。バデュラで出会った強盗団の者達は確かに言っていたではないか。違いなど全く分からなかった、と。
「嘘じゃない。フィストリア(五番目の姫)から前に聞いたことがあるんだ。ディーオ・トリアは聞かせてもらってなかったのかい。現にディーオ・トリアは彼の紋様を見つけたから追って来たんだろう? 私には見分けなどつかないのだけれど、皇族がジン(魔人)を連れた輩を警戒していると情報が入っていたからね」
 きっと来てくれると思ったんだよ、とナイデルは和やかに微笑を浮かべる。そこに危害を加えようという意思などまるで見えはしない。ただ、彼はいつも優しいのだ。全てが幼き日々にあったものと重なってしまう既視感に、フィシュアは後ずさろうとした。
だが、男に左手を強く握られて、彼女は悲鳴を上げる。
「おや、酷い火傷だね。さぞ痛かっただろう?」
 ナイデルはフィシュアの両の掌を開かせて、火傷の度合いを検分し始めた。フィシュアの右手から零れ落ちた短剣は、地に落ちて空虚な音を響かせる。どちらの掌も赤く焼けただれて、短剣を握りしめていた右手の方にはじんわりと血が滲む。さっきまでは痛みを感じる余裕すらなかったのに、握られ、眼前に出されれば刺すような痛みがじくりと走った。
「ねぇ、ディーオ・トリア? フィストリアがね、」
「―――やめてっ! 私はもうディーオ・トリア(小さな姫君)じゃない! 今のフィストリア(五番目の姫)はイリアナ様じゃなくて私なの。あなたのせいで、フィストリア様は……イリアナ様はいなくなったんじゃない! イリアナ様も、サクレ様も、あなたのせいでっ」
「私のせい? 違うだろう? 私は何もしてないよ。私は君に言付けを頼んだだけ。そうしたら、サクレが襲われて死んだだけ。まさか、イリアナが奴の後を追うなんて思いもしなかったが……」
 ね、とナイデルは微笑を広げて、フィシュアに語りかける。
「イリアナは奴のせいで死んでしまった。どうしてだろうね。奴から離してしまえば、戻って来ると思ったんだよ。きっと目が覚めると思っていたんだよ」
 フィシュアの背をぞわりと冷たいものが這う。首筋を男に撫でられていることよりも、繰り返されたかつての呼称に肌が粟立った。
「どうして君はまだ生きているの? イリアナがいないのに。フィストリア(五番目の姫)の名まで受け継いで、どうしてここに立っているの?」
 もう褒めてくれる人はいないのに。
 ねぇ、とナイデルは微笑んだまま、フィシュアの咽頭に指を押し沈める。息苦しさに、息がつまってしまったのは、決してゆるゆると首が絞められていくからではなかった。
「だけどね、イリアナの跡を継いでくれていて嬉しいよ、ディーオ・トリア。彼女を忘れないでいてくれてとても嬉しいよ。だから、君をフィストリア(五番目の姫)の座から解放してあげよう。宵の歌姫の役割から解き放ってあげよう。だって、イリアナは歌わなくちゃいけなかったから、奴を選ばなければならなかったんだろう? 旅をしなければいけないから、仕方なく奴と共にいたんだろう? 全てはフィストリア(五番目の姫)のせいだ」
「―――違っ……」
 くいとさらに深く押されて、否定の言葉を呑みこまされる。
「ディーオ・トリア。君はイリアナを死に追いやったから本当はとても憎いよ。だけど、イリアナを慕ってくれているからとても愛おしいよ。だから、君のことも助けてあげる。フィストリア(五番目の姫)のしがらみから救ってあげる」
 甘やかな囁きは、暗闇に響いて、ガンガンと鳴り渡る。
 嫌だ、そんなのはもういらないのだ、と声の限りに訴えたくても、息苦しさが増すばかりで、フィシュアには、顔を苦痛に歪めて男を睨み上げるしか為す術はなかった。
 
 
 目がくらむほどの光がバチバチと音を立てて突如薄闇の夜を照らした。
「フィシュア様を離しなされ!」
 叫び声と共に、ナイデルの腕は打ち叩かれて、フィシュアの体はぐいと引かれて離される。男の手から逃れた彼女の首は、ようやく気道を取り戻し、入り込んできた冷たい夜風にフィシュアは咳きこんだ。
「全く先程の忠言が聞けないのなら、一人で勝手に追いかけないでください」
「ごめっ……ロシュ……老師(せんせい)も」
 シュザネは「いいから下がっておきなされ」と告げて、フィシュアとロシュを庇うように立ちふさがる。
 ぽたりぽたりと地に血を落とし続けるロシュをフィシュアは見上げた。しかめられたロシュの顔は、ナイデルへ向けられ、空色の双眸は鋭く彼を睨んでいた。
「ですが、これも私の失態でしょう。相手がナイデル候ならフィシュア様が惑ってしまうのも仕方がありません。どうして、あなたがここにいるのですか」
 怒りを多分に含んだ声音を受けて、ナイデルはクスリと笑う。
「さっきからそればっかり質問されている気がするね。私の方が聞きたいんだが、ロシュ。どうして、君がここにいるのかな? いっつもディーオ・トリアにひっついて回っていたから、せっかく追いかけてこられないようにしてやったのに、案外浅かったのかな?」
 ね、とナイデルは、離れた場所に立ったままのジン(魔人)に目配せをする。ジン(魔人)は、「運が悪かったんじゃない?」と肩を竦めながら、契約者の問いに答えた。
「どうする、これって攻撃した方がいいの?」
 ジン(魔人)は、軽口を友に投げるような口調でナイデルに尋ねる。
「そうだね、ディーオ・トリアにこっちの陣営に入っていてもらおうと思ったんだけど、こうなると面倒だからね。どちらにいるにしろ結果は同じだし。いいよ、帰ろう。邪魔されない程度にお願いしようか」
「了解」
 淡と落ちた了承の言葉。シュザネは変わりかけている辺り一帯の空気のさざめきに、戦慄を覚えて構えの構成をできうる限りの素早さで紡ぐ。
「―――ロシュ殿っ!」
 防ぎきれそうにない程の魔力の膨張を感じて、シュザネは焦燥の声を張り上げた。
 言われるまでもなく、ロシュはフィシュアを抱き込んで覆い隠していた。悲鳴を上げたのはフィシュアである。
「老師(せんせい)! 待って、やめてロシュ! 大丈夫だから。私の方が大丈夫だから!」
 なぜならラピスラズリがある。それさえあれば、魔は防いでくれるはずなのだから。
 しかし、ロシュは動かなかった。包み込まれて、覆い隠された視界では暗闇しか見えない。押しあてられた額に感じる少しざらつく服の生地は、間近すぎて色さえ分からなかった。
「ロシュ!」
フィシュアはギュッとロシュの服を握って押し返す。少しでも間を広げては抜け出し、前に出ようとひたすら無駄な努力を試みる。ちっとも動じないロシュは、逆に抱き込む力を強めて衝撃に備えた。
「今度こそ大人しくしていて下さい。ラピスラズリの力の全ては計り知れない。防ぎきれなかったらどうするのです。大体、離した隙に連れて行かれでもしたら、たまりませんからね」
 呆れたように溜息をついて、こんな時でもロシュは「すぐに終わりますよ」と朗らかに笑う。
 
 闇を揺するざわめきと、すぐ傍で次々と鳴り始めた肉のえぐれる底気味の悪い音にフィシュアは声にならない声を上げて絶叫した。
 ロシュの言った通りの刹那であった時間の出来事は、何事も無かったかのように凪いで行き、再び静寂をもたらす。
「ほらね」とロシュは笑って言う。
「やはり、庇っていて正解だったじゃないですか」
 藍の瞳を際限まで見開いて驚愕しているフィシュアの右肩辺りの服は、掠れて浅く切れ、血を滲ませていた。
 呆然と立ちつくしたままのフィシュアの体を滑るように伝って落ち倒れた護衛官の周りには黒々とした血だまりが広がる。
 見渡せるようになった視界の先には、血に濡れた北西の賢者が荒い息を繰り返し、なんとか立っていた。それ以外に最早人影などない。
「―――やあああっ!」
 フィシュアは小さく呻き叫んだ。
 動かなくなったロシュを見下ろす。彼の嫌な冗談がフィシュアの思考を塗りつぶす。
 
響き渡らない痛嘆が、完全なる夜の闇に呑み込まれた皇都を切り裂いていった。
 
 
 
 
 

(c)aruhi 2009