ラピスラズリのかけら 5:継がる名 13 燃ゆる焦げ跡【3】

 

「フィシュア様!」
 
呆然と立ち尽くしていたフィシュアの体を揺すり、現実へと引き戻したのは一人の侍女だった。
「……ホーリラ」
 蒼白な顔で震えている彼女は、自身の青の双眸がフィシュアの視点と結ばれると一度深く頷いてから、きつくフィシュアを搔き抱いた。
よくご無事で、というホーリラの擦り切れてしまっている声を、フィシュアは彼女の肩越しに聞いた。自身よりも華奢なホーリアの体は細かく震えて、だが、抱き締められる強い力は揺るがない。フィシュアは慌ただしく行き交う人と、雑音を遠くで感じながら、自分を辛うじて立たせてくれている彼女に謝罪を告げた。
「ごめ、ん、ホーリラ……ロシュ、が……」
 切れ切れに告げ、しかし、皆まで告げることが出来なかった。開かれたままの口は続く言葉を失って、代わりにひゅうと息を吸い込む。
「―――ごめんっ……ごめんなさい、ホーリラっ」
 抱き締め返すことも出来ずにフィシュアは壊れたように何度も同じ言葉を繰り返しては、彼女に詫びた。それだけしか、フィシュアにはできることがなかったのだ。
「どうしよう、どうしたらいいの!?」
 失ってしまったら、もう戻っては来ない。
 あの場所から自身を含めた三人を皇宮へと転移させてくれたシュザネは辿り着いた途端、力尽きた。それでも、すぐに人がやって来て一命は取り留められた。けれど、長年一緒にいた護衛官の方は、もう無理だと、誰もが揃えて言い辛い言葉の代わりに首を振った。
傷が深すぎた。何より失血が多すぎたのだ。零れ落ち始めた命はもう止まらない。
「どうしよう、ロシュっ……私の、せいだ」
 苦しげに吐かれた言葉に、ホーリラは強く首を振って、フィシュアの腕をしっかりと持ったまま体を離す。
「フィシュア様、それは違う。あの人は、そう思われることを望んでなんかない」
「―――だけど」
 よく考えもせずに走りだしてしまったのは自分だ。再三言われ続けたことを失念してしまっていたのも自分。だから、ロシュは追いかけてきてくれたのだ。追いかけてきてしまったのだ。
 フィシュアの腕を掴む手に力を込めて、ホーリラは彼女を見据えた。
「フィシュア様がご無事なら、ロシュがしたことは間違ってない。あなたではなく、ロシュの方が戻ってきたら、私は彼を張り倒しますよ!」
 だって私達の第一はいつもあなたなのですから、と青い顔をして震えながらも、ホーリラは気丈に微笑みを刻んだ。フィシュアの頬に手を伸ばして、すすけた汚れを拭う。
「ジン(魔人)のことは、誰のせいでもない。そんなの私達人間にはどうしようもないじゃないですか」
「……ジ、ン(魔人)……?」
 ホーリラが口にした言葉にフィシュアは目を瞠った。「フィシュア様?」と心配気に問われた自分の名も聞こえずに、床を蹴って走り出した。
 
 
 扉はけたたましい音を立てて叩かれた。
 夜も更け始める頃合い。部屋の主である二人は、何事かと顔を見合わせる。
 開かれた扉に向かってフィシュアは叫んだ。
 
「―――助けてっ、助けて……! お願い、私、何でもする! 何でもするからっ!」
 
 扉を開けた瞬間、ぶつかるように服を握られ、金切り声で訴え始めたフィシュアに驚きながら、シェラートは「落ち着け」と彼女の肩を持ち、引き離して声をかける。しかし、生ぬるく湿った左手に、シェラートは眉を寄せた。
「何があったんだ」
 尋ねてもフィシュアは強く首を振っただけで、答えられはしなかった。ただ、彼女の口から紡がれるのは助けを求める言葉ばかりだったのだ。
「……お願いだからあぁっ……!」
 ひたすらに悲鳴を上げては慟哭し続けるフィシュアの姿は、すすに塗れ、右肩には血が滲む。ひらりと風になびいていただろう淡青の舞台衣装は、ところどころに焦げ破れ、腹の上の辺りには大きな赤黒い血に塗られてた。
「フィシュア……?」
 テトが心配そうに見上げる。だが、いつも彼女が気にかけている少年に呼びかけられたにもかかわらず、フィシュアは反応しなかった。ただ、縋るように赤く皮のめくれかけた手で、服を揺すっては懇願し続ける。
 シェラートは、フィシュアの腹に手を当てて、そこに傷がないことを知る。それならば、と彼はフィシュアに頷きを返した。
 了承だけを見取って、フィシュアは再び駆けだす。
 状況が判断できない今は、テトをここに残して行くしかない。不安そうにフィシュアを見送ったテトの頭を「大丈夫だ」と撫でてから、シェラートは彼女を追いかけた。
 
 
 連れて行かれた場所に、彼女の傍らにいるはずの護衛官は姿を変えて横たわっていた。辺りには血にまみれた布が散乱し、試みの無力さが窺われた。
「ロシュか」と問う声に、フィシュアは頷きと呻き声を洩らす。
 今はもう、一人の医師と、彼の妻であるホーリラしか残っていなかった室内を横断して、シェラートは寝かされているロシュの前に立った。
 詳細な状況は分からないしろ、目の前にある事実だけは言われなくても理解できる。
 シェラートは手を深くえぐれた傷の上にかざした。たったそれだけで、全ては塞がれ、消え去った。驚いている二人に構うことなく、シェラートはその内の一人である医師に数種の薬草の確認を取る。
「血が足りてない。一応の代替だ。魔力と混ぜ合わせて底上げさせておくから、目を覚ましても一日は安静にさせろ」
 急ぎつくった丸薬を一粒ロシュに飲ませてから、シェラートは残りを「一時間ずつだ」と言い含めて医師に渡す。医師は何も言葉を発せず黙したまま全部で二十三の丸薬を掌に受け取った。
 傷の消えた護衛官を、気が抜けたように佇立して眺めていたフィシュアの手をシェラートは「大丈夫だから」と言って、引いた。逆らうこともなく、促されるから歩いているらしいフィシュアの手を引いたまま部屋の出口へと向かう。
戸口に立って「フィシュア」と呼び止めた薄茶の髪の男の横をシェラートは素通りした。その男の隣に立って「ちょっと!」と半ば怒ったように言うイオルに、シェラートは「先に治療する」とだけ告げた。
 
 フィシュアを連れて行った男と、中の様子を見比べたオギハは、部屋に入ることなく、部屋を後にした。フィシュア達が歩いて行った方とは別の方向に足を向けて、自室への道を行く。
 呆気にとられて彼ら二人を見送っていたイオルも「置いて行かないでよ!」と駆け寄ってき、すぐにオギハの隣に肩を並べた。
 オギハはイオルを軽く見やり、問う。
「あれが、ジン(魔人)だよな?」
「そうそう。面白いことになりそうでしょう」
 ふふと笑った妻に、オギハは相槌を打たなかった。彼女の娯楽に関して今はどうでもよく、関係のないことなのだ。
 まあでも、とオギハは口の両端を上げて、イオルの名を呼び招いた。
 
 
 
 外廊の手摺にフィシュアを腰かけさせて、シェラートは治療を始めた。酷い外見の割には、怪我している個所は少ない。されるがままにされているフィシュアは、ぼうとそれを眺めていた。
「もう……、大丈夫?」
 頼みの細い綱を縒るような確認は寂然とした夜に落ちた。暗い夜風は、柔らかに壁のない廊下を通り抜ける。
「ああ、大丈夫だから」
「……そう」
 肩の痛みまで払拭された今は、何が起こったのかさえもう考えたくはなかった。
 床に触れるつま先がようやく地に着いている感覚を取り戻す。
「何かあっても関わらないでって言ったのは私なのにね」
 フィシュアは自嘲を浮かべた。一番に頼っていたのは自分ではないか、と。
 シェラートが人間であったと知った時から、人間に戻す手段を与えてあげたいと考え始めた時から、自分の為だけにジン(魔人)としてよがるのはやめようと決めていたのに。ホーリラにジン(魔人)の存在を提示されて真っ先に浮かんだのが、ジン(魔人)の力を持つシェラートだった。確かにあったはずの決意は、跡形もなく脆く崩れ去った。
落ち着いたか、と手がフィシュアの頭をぽんぽんと撫でた。
「自嘲でも笑えるなら、もう大丈夫だな」
そこに嫌悪感はまるでなかった。ナイデルにされた時は恐ろしかったのに。ただ、そのことが思い出されて、フィシュアはかすかに震えた。無理矢理追いやろうとして、失敗し、フィシュアは治ったばかりの手を握り締めて俯く。
「……ごめんなさい」
 もう何度紡いだか分からない言葉を、フィシュアはまた言の葉に載せた。
「別にいい。ただ同然で衣食住の世話してもらってたからな。このぐらい頼まれなくても働く。ロシュだしな」
 だからいい、と落ちた響きに安堵して、フィシュアは顔を上げた。
「あ、ありがとう」
「ああ、そっちの方がいい」
 シェラートは苦笑した。翡翠の双眸にさえ、苦笑が映っていた。
くしゃくしゃと髪を崩されて、乱れてしまった髪を再び手が解き行く。
「……失ってしまうかと思った。また私のせいで」
 だから、ありがとう、ともう一度口に出して、フィシュアは今度こそ微笑を刻む。
 後悔を惜しむこともなく次に活かせることができるのは、シェラートのおかげなのだと。何度告げても足りないと思った。
 
 ぽつりぽつりと礼を唱え続けるフィシュアの言葉が、ようやく途切れたのを待ってから、シェラートは話しかけた。
「フィシュア、ちゃんとラピスラズリしてたか?」
 うん、とフィシュアは俯く。彼女の胸には、確かにいつもと変わらずラピスラズリの首飾りがあった。シェラートは疑問が確信に変わりそうなのを感じながらフィシュアの右肩を見た。
「あの……ね、……あの時、ロシュが庇って、私が前に出なきゃいけなかったのに」
 再び掠れ始めた声が、これ以上弱くなる前に、シェラートは止めた。
「そのことに関してはロシュが正しい。シュザネが言ってたんだ。恐らくラピスラズリの力にも限度がある。ロシュもきっとシュザネからそう聞いていたんだろう」
だから、確かめたいことがあるのだ、と彼は言った。
「ちょっといいか?」
「……え、ええ」
 首を傾げながらも、了承したフィシュアの双眸をシェラートは自身の左の掌で覆い隠した。そのまま、耳元に口を近づけて、「寝ろ」と囁く。
 途端、あらがえぬ力に、底へと引きずりこまれる感覚を覚えたフィシュアは、おののいて、彼の腕を掴んだ。
「―――や、待って、まだ、ロシュが……」
「寝て起きたら、もっと落ち着く。絶対に大丈夫だから」
 魔力を込めた言葉をシェラートは再度紡ぎだした。同時に、コテンと倒れてきたフィシュアの体をシェラートは支える。
やっぱりか、とシェラートは苦々しく呟いた。
持ち主の意志に反していることを、ラピスラズリは拒むはずである。それなのに、今、フィシュアは抗う術なく眠りに落ちた。
 皇家に継がれるラピスラズリは他よりも強いとシュザネが言っていた。けれど、シュザネの仮説通り、ランジュールから真にもたらされたラピスラズリがたったの一つだけなのならば、フィシュアのものはそれには当てはまらない。トゥッシトゥス(三番目の皇子)が持つものと変わらぬように見えたのだから。
 それでも、昔、転移しようとして弾かれたことがある。強力なものではなかったからだろう。今日のも―――それほどまでには強くなかったはず。にもかかわらず、フィシュアの肩の傷には魔力が纏わりついてありありと残っていた。魔法で付けられた傷に違いないのだ。
 そのことが示すのは一つだけ。持ち主に認識されない限り、少なくとも目に入れない限り、その魔から持ち主が守られることはないということだ。
 庇われて、見えなくなったからこそ、弱い石では全てを弾き返せはしなかったのだ。
「渡すなら全部に力を込めとけ、クソジジイが」
 忌々しげに、今はこの世にいない知り合いに吐き捨てて、シェラートは眠りに着いたままのフィシュアを抱き上げた。
「一体、何があったんだ」
 シェラートは呟く。
 フィシュアを部屋に運ぶ為、転移して彼女の部屋の前に立った。
ジン(魔人)の魔力が弾けたのは感じとっていたのだ。しかも、四回も。そのどちらもが、今回のことに関連していたのだろう。シュザネが緊迫して転移した時に気が付くべきだったのだ。
シェラートはフィシュアを抱き支えたまま、消えた肩の傷を見やって、だが、顔を背けた。
 
 ねぇ、と笑いを含んだ女の声が背後から聞こえたのは、その時だった。
 振り向いて、後ろを睨めつけたシェラートへ、廊下に立っていたイオルは微笑んだ。
 
 何があったのか教えてあげましょうか、と。
 
 
 
 
 

(c)aruhi 2009