ラピスラズリのかけら 5:継がる名 14 水音陶花【1】

 

 ちろん、ちろん、と水を掬っては掌から零す。
否、留めておくのは不可能なのだ。だから、掬っても掌から零れてしまうと言うのが正しいのかもしれない。
 彼女は同じ動作を何度も繰り返す。何度も何度も。
 ちろん、とまた水が指の隙間をすり抜けて、小さな泉に波紋を広げた。円を描いては広がっていく水紋を阻害するように、新たに落ちた雫が別の水紋をつくりだして塗り替えていく。
 彼女はただ同じ歌を口ずさんでいた。同じ歌の同じ個所だけを何度も繰り返して。
水は何度も掬われては、結局掬われることなく泉に戻る。
澄んだ音だけを奏でて。それは、まるで彼が弾き出していた奏でのように。
だから、彼女は歌っていた。
反応が消えてしまうのを拒むかのように何度も泉に手を浸しては、水紋を広げて。
 恍惚と水面に亡き人の面影を求めて。
 
「ああ……」
 
 ずっと水面を見つめ続けていたイリアナが、何かを悟ったように空を見上げたのをフィシュアは遠くから眺めていたのだ。
 
 
*****
 
 
 いつから歪みが生じていたのか、フィシュアは知らない。
 いつから狂い始めたのか、幼すぎたフィシュアが気付くはずもなかった。
 
 宵の歌姫の、フィストリア(五番目の姫)の在り方を教えてくれたのはイリアナ。
 背筋を伸ばして、お腹から声を出すのよ、とフィシュアの背と腹に自身の手を添えてイリアナは言った。
「感情を込めて歌うのよ。宵の歌姫は幸せを、願いを、届けるの」
 ね、とイリアナは笑って、ほんの少しひんやりとした、たおやかな手でいつもフィシュアの頬を包み込んだ。フィシュアの歌の上達を一番に褒めて、自分のことのように喜んでくれるイリアナが大好きだった。
 
 全ての歌には物語があるのだと、そう教えてくれたのはサクレ。
 吟遊詩人である彼は、物心ついた時から西の大陸を旅し続けてきたのだと言う。旅の途中でイリアナに出会ったのだとも。
数多の歌と同等の物語をサクレは知っていた。
「歌は物語を伝える為の手段でもあるんだよ。だから僕たちは歌うんだ」
 くしゃりと表情を崩して、サクレはいつも誇らしげに語る。彼の黒茶の瞳はいつもキラキラと輝き希望を映していて、彼が紡ぐ物語と同じく鮮やかであった。
彼のすとんと落ち着く、けれど、少し高めの声が「ディーオ・トリア(小さな姫君)」と自分を呼んで、抱きしめてくれる大きな手がフィシュアは大好きだった。
 
 人の繋がりの大切さを教えてくれたのは、オレオ。
 イリアナの護衛官であった彼は、寡黙ながらも暖かかった。目が合うとただ静かに微笑んでくれる。
 いつも傍らに佇んで、遠すぎない距離で見守ってくれていた彼はいつも安心感をもたらす。ロシュを連れて来たのも彼であった。
「フィストリア(五番目の姫)と護衛官の繋がりは絶対に切れませんからね。ロシュにちゃんと我儘を言って困らせるんですよ」
 冗談とも本気ともつかぬ、普段の彼ならとても言いそうにない言葉を告げられて笑ってしまったことをフィシュアは今でも覚えている。しっかりと頷いたら、オレオが頷き返してくれたことも覚えている。
 なぜならそれは今でもフィシュアに安心をもたらしてくれる言葉であったから。彼がくれる言葉は、いつも優しくて、だから、フィシュアはオレオが大好きだ。
 
 フィシュアに初めて祝福のキスを教えてくれたのは、イリアナの婚約者であったナイデルだった。
 頬を撫でられて、そのまま頬へと柔らかく口付けられたフィシュアは驚いて目をぱちくりとさせた。イリアナとオレオがクスクスと笑っている中、ナイデルだけが少し困ったような顔をした。そして、教えてくれたのだ、祝福の意味を。福を祝って、また、それを願うのだと。
「宵の歌姫も人々の幸福を歌うから、込められる願いは同じだね」
 ナイデルはフィシュアと目線の高さが合うよう腰をかがめたままそう言った。じゃあ、とフィシュアはナイデルの顔に両手を伸ばして、初めて祝福を与えたのだ。それからその場にいた、イリアナに、オレオに。
 サクレがやって来てからはサクレにも。ロシュと初めて会した時にもしたら、とてもびっくりされてしまったが。
 なぜなら、フィシュアはナイデルが大好きだったのだ。いつも変わらず頭の頂を撫でてくれるナイデルが。
 
 みんな大好きだったのだ。
だから、みんなに幸せになって欲しいと思った。
 幸せになって欲しいと願った。
 
 なのに、どうしてだろう?
 
 願いは、ただの願いでしかなかった。
 だが、願うことをやめることも、またフィシュアにはできなかった。
 ありったけの願いを込めて願う。祝福を。幸福を。未来を。
 願う時だけは、信じられるから。信じているから安心できた。
 何よりも、祝福を与えられるということは、幸福を願う人がすぐ傍にいるということなのだ。
 祝福はそれを実感できる術であった。少なくともフィシュアにとっては、いつからかそうなっていた。
 
 
 小さな泉を形成す積み石にフィシュアは手を掛けた。
 泉の中には緑の藻が浮いて、泡が藻から離れてふわりと上昇しては水面に辿り着いて弾ける。小魚の群れは銀の背を陽光に煌めかせながら、突如彼らの世界に侵入してきたものに、ぱっと散っていった。
 触れた水は冷たかった。風が吹き荒れて、泉の表面に広がってしまった自身の髪を気にもかけず、フィシュアはぼんやりと泉を眺めた。
 一番苦手な歌を口ずさむ。
あの日、イリアナが繰り返し歌っていた歌を。繰り返し歌っていた個所を。
 
泡沫の淡い雫は 闇に溶け
朝日に還る 夢を見る
 
 不思議だとフィシュアは思った。
 眠って、目が覚めたら、自分で思っていたよりも、ずっと落ち着いていた。ロシュが助かると言われたからかもしれない。落ち着くから、とシェラートに言われたからかもしれない。
 それでも、ナイデルのことが大きすぎたのは事実で、だから、自分はここに来てしまったのだろうと、そのこともきちんと分かってはいた。幾分か冷静に考えられているだけだ。
 
砂をばら撒き 掬い上げ
星を砕く 夢を見る
 
 一体どうしてなのだろう、とフィシュアは疑問に思う。一体どこからだったのだろう、と。
いくら思い返してみても、未だに始まりは分からない。
 
 ある日、旅から帰ってきたイリアナとオレオは一人の吟遊詩人の男を伴っていた。突如現れたサクレをあの日のナイデルは確かに歓迎していたのだ。
 まるで必然であったかのようにイリアナとサクレは共にいることが自然となり、代わりに、イリアナとナイデルの間に交わされていた約束はなくなった。
 婚約の意味をおぼろげながらも理解していたから、彼らの婚約の解消を知った時、フィシュアはナイデルに「大丈夫?」と聞いたのだ。けれど、ナイデルは微笑を浮かべて普段と変わらず頭を撫でてくれたではないか。
これは始めから決まっていたことだからね、と。
「フィストリア(五番目の姫)の婚約者は特殊なんだよ。フィストリアが真に好いた者と一緒になる為に用意されている仮のものでしかないからね」
 その方が常に旅をしなければならないフィストリアには都合がいいのだ、とナイデルは言った。貴族のしがらみに囚われることなく自由に動き回る為には、一般の民との婚姻の方が好まれる。相手が吟遊詩人なら尚更いいだろうね、と彼は彼らを祝福していたのだ。良かった、と満足そうに微笑んでいたのだ。
 
甘やかなさざめきに惹かれ
触れられぬ水に落つ 夢を見た
 
 ナイデルが、サクレへと託した伝言の内容をフィシュアはほとんど覚えていない。ただ一つだけ。
 プレディの庭園という指定された場所だけは覚えていた。
 どうして泉のあるランティアの庭園ではないのだろうかと思ったのだ。いつも皆が集まるのはランティアの方なのに、と。
 開けてみれば大好きだったサクレは殺されてしまって、その場所はやはりプレディの庭園であった。
 その後、イリアナは壊れたように歌い続けた。同じ歌の同じ個所を何度も何度も繰り返して。それは、イリアナが一番に愛した歌だった。ただ一人、泉に佇んで歌い続けるイリアナをフィシュアは遠くから眺めるだけしかできなかった。
 ナイデルは優しく抱きしめてくれた。「ディーオ・トリアのせいなんかじゃないよ」と。だけど、その言葉は、あの時サクレに伝言を託さなければこんなことにはならなかったことをフィシュアに唐突に理解させた言葉でもあった。
 それでも、フィシュアにはナイデルを疑うことなんてできなかったのだ。おかしいとはどこかで感じていても、ナイデルがイリアナを見る目は悲哀でしかなかったから。自分を慰めてくれる声は酷く震えていたから。
 ただ、オレオとロシュはナイデルがフィシュアに近づくことを嫌がった。そこにはあからさまな嫌悪と警戒が滲み出ていて、かつてあったはずの穏やかさなど微塵もなくなった。
 穏やかな時はいつも穏やかさそのものであったはずなのに。崩れてしまうなど、失くなってしまうなど、想像もしなかった。ずっと続くものだと思っていた。
 けれど、呆気なく崩れた穏やかさは、イリアナの死をもって完全に幕を下ろした。
 泉から聞こえていた歌はふつりと途切れた。
 彼女は歌の通りに水に落ちた。
 泉に落ちて死んでいるところを早朝に発見されたのだ。
 フィシュアは、イリアナの様子がどうであったのかを知らない。
 ただ酷い状態だったのだと言う。水で膨れた体は皮がめくれ、夏の盛りだった為に、腐敗も生じていたのだと。
イリアナの死を耳にして、すぐ泉へと駆けたフィシュアの目をロシュは覆い隠して閉じた。見てはいけない、としっかりと体を抱きこまれた。
フィシュアはイリアナの最期を見ていない。
 
「イリアナ様……!」
 
 伸ばした手は届かなかった。ただ失われた視界のせいか、辺りの喧噪と鼻をつく不快な匂いだけが、はっきりとフィシュアの元に届いた。
 だから、フィシュアの記憶の中のイリアナは、泉の水を掬っては歌い続ける綺麗な姿のままなのだ。
 
 ふと、何かを悟ったように天を見上げた、その姿のままフィシュアの中のイリアナは永遠に時を止めた。
 
 
 
 

(c)aruhi 2009