ラピスラズリのかけら 5:継がる名 15 水音陶花【2】

 

 掬った水は掬った先から零れて行く。
 一向に静かにはならない泉にまた一つ水紋を広げる。けれど、自分の顔以外に映った影に気付いて、フィシュアは描き出されていく弧から視線を逸らさぬまま口を開いた。
「何? 今日は打ち合いはなしなの?」
「別に。勝敗が見えてるのなんて楽しくないだけ」
 ドヨムは、「だろう?」と同意を求めるように肩を竦めてみせる。さすがにそれは不服だと、フィシュアは背後に立つ兄を振り返った。
「それは、分からないじゃない?」
「いや、分かる」
 な? と口の両端を上げて笑うドヨムの手は、何に遮られることもなく、ひたりとフィシュアの首にあてがわれた。掴まれた側のフィシュアは軽く嘆息をして、だが、さらに力を加えられ息を止められたことに眉根を寄せた。
「楽しくない」
 淡々とドヨムは興醒めの意を告げる。
彼の顔が微かに歪んだのは、彼女が音を失くしたまま口を動かした時だった。
風切り音は素早く舞う。よけきれずに、鋭い爪がかすったドヨムの腕からは赤い血が伝った。
けほりと息を整えたフィシュアは、泉の石枠に降りたった鳥に顔を寄せた。茶の鳥も、求められた通りに、主人の頬に頭を擦りつける。
「残念。今日はホークがついてるの」
「……っ! 卑怯だぞ!?」
「“戦場は常に不意打ちの集合体”。誰の言葉だったっけ?」
 フィシュアは悠然と微笑み、同意を求めた。しかし、自身の血を舐め取っている兄からは一向に答えが返らなかった。だから、彼女はホークの首の羽を搔いて労をねぎらうことにした。
「フィシュア」
 ドヨムはどかりと石枠に腰を下ろした。ぱしゃり、ぱしゃりと手を水につけたままの妹を眺めやる。
「ここは立ち入り禁止だとオギハに言われているだろう」
 泉に浸かった手は止まらない。いつかの虚構を彼女は繰り返す。
「大丈夫よ、ばれなければ」
「思いっきり、ばれてる。見て来いって言ったのはオギハだからな。フィシュアが怪我したせいで、長兄様の機嫌が今までになく悪いんだぞ。とばっちりがこっちにまでくる」
「あー……それは、ごめん」
 ちろり、と水が滴っては落ちる。その横でホークは静かに喉を潤した。
 大体、とドヨムは不機嫌そうに続ける。
「ロシュはどうした。護衛のくせに居ないのか。くびだな」
「勝手にくびにしないでよ。療養ついでにホーリラと一緒に無理矢理休暇に出したの。ここに来たかったし。何しても全部許してくれる人が近くにいるのはちょっとね」
 ちょんちょんとフィシュアは指先で水面をつついて、紋をつくる。広がっては、また重なって、波紋は絶え間なく連なる。
それを叩いて、バシャリと崩したのは、ドヨムの掌だった。歪んだ水面は、だんだんと静まってピタリと張る。
「俺はいいのか? 全部許すぞ? 優しいぞ?」
「ドヨムのどこが優しいのよ」
「優しいだろ。下に優しくが、うちの兄弟の特徴だからな」
「妹の首を絞める兄のどこが優しいのよ。二回も首締められるなんて思わなかったわ」
「それは奇特な経験をしたな。けど、容赦なく兄の腕を抉らせようとした妹よりかはましだろ」
 泉からまた音を立てて離れたドヨムの手からは水滴がぽたぽたと垂れた。彼はうっとうしそうにそれを払う為、手を振る。飛んできた水滴が、頬にも、ホークの羽にもついて、フィシュアはそれを拭いやった。
「何だ、割と平気だったか?」
 丁寧に自身の服で茶の鳥の羽を拭いているフィシュアを見て、ドヨムは意外そうに首を傾げた。
 自分と同じ濃い藍の双眸を持つ兄を見上げて、フィシュアは苦笑する。
「何それ、もしかして心配してる? ドヨムに心配されることより恐いことなんてないんだけど」
「安心しろ。心配しているのは、俺じゃない」
 ドヨムは肩を竦めてみせてから、空へと目線を向ける。流れる雲は緩やかに伸びやかに鮮やかな色を霞ませていた。
 水面に映るのも同じ。けれど、虚偽でしかない空をフィシュアはぼんやりと眺めた。
「ううん、平気じゃなかった。本当はもっとずっと大丈夫だと思ってた」
 他の者と対する時と同じように向き合えると思っていた。だけど、あの声が聞こえた瞬間固まってしまった。初めは指すら動かなかった。実際は、想像していた通りにはいかなかったのだ。
「ただ今は、落ち着いたのよ」
 フィシュアは静かに微笑む。ドヨムは何も言わなかった。
ねぇ、とフィシュアは水を掬って流しながら、ドヨムに話しかけた。
「あの時、イリアナ様は何を考えていたんだろう?」
 ふと顔を上げた時、彼女は何を見たのだろう。
「だってね、私には甘やかなさざめきなんて聞こえない。水に落ちたいなんて思わない。むしろ、落ちると分かった時に感じたのは恐怖でしかなかった」
 自分の意思に反して水底へと引きずり込まれていく感覚は今思い出しても空恐ろしい。自分の元を離れて、上へ上へと立ち昇っていくあぶくを見ているだけで、全身が冷えた。
 それでも、イリアナは水に惹かれたのだ。
「まだ、そんなこと考えてたのか」
 耳元では、ちろちろと水音が繰り返され続ける。そのことに、ドヨムは溜息を付いた。
 繰り返しても意味がないのだ。近づこうとして、近づけるものでもない。
「俺は知らないし、知りたくもないけどな。名を抹消された女は興味の対象ですらない」
 ドヨムの口調には何の熱も含まれていない。ただそこに横たわる事実を淡々と述べているだけでしかなかった。
「ええ、そうかもね。少なくともそっちの意見の方がドヨムらしい」
考えたって分からない。答えはここにはないのだ。もうずっと昔に消えてなくなってしまったのだから。
フィシュアは手を泉の水から引き抜いた。そっと手を沿わせた石枠は、雫を受けて深く暗い色に変わる。彼女の手の周りの岩に、しみが滲んでいく様を、ドヨムは黙したまま眺めた。
フィシュアは手を載せている石が含む陽の熱を感じながら、一度だけ留まり行く泉の水面を見、それからドヨムの方へ顔を向け直した。
「私も、もうそろそろここから離れなきゃ。会議があるから呼びに来たんでしょう?」
「まあ、それもあるけどな」
 立ち上がって服に付いた草切れをフィシュアは手で軽く払った。そうして、泉に背を向けると「何?」と兄の隣に腰掛けて座る。
「会議があるのはな、昨日のこともだけど、トゥイリカが帰ってきたからだ。お土産もあるってよ」
「そうなの? 帰って来てたんだ。お土産かぁ……それは楽しみ」
 クスリと微笑んだフィシュアを、ドヨムは横目で眺めやった。
「あとなぁ、あのジン(魔人)だけどな?」
「シェラート?」
「皇宮にいるジン(魔人)が奴だけなら、多分そいつだな」
 きょとんとした顔で次の言葉を待つ妹の表情を見逃さないようにと見据えたまま、ドヨムは聞いたばかりの話を告げた。
「イオルのジン(魔人)になったってよ」
 ドヨムはにかりと笑って、フィシュアの反応を確かめる。
 深い一対の藍色の瞳は、待つまでもなく、みるみるうちに極限まで見開かれていった。
「……何、それ……?」
 聞いてない、と小さく零れた言の葉に、ドヨムはくつくつと喉を鳴らす。
「そりゃ聞いてないだろうな。俺もさっき聞いた。でも、昨日の話らしいぞ?」
「……何で? どうして?」
「さあな?」
 信じられないと、彼女の表情は語る。
 ドヨムは口の端を上げたまま、首を傾げてみせた。
 すぐ傍では微量の風が巻き起こって、足音はたちまちのうちに遠ざかる。その後を、羽音が追いかけて行った。
 
「おお、本当に怒って駆けて行ったよ」
 
 ちっとも驚いていない感嘆を述べて、ドヨムはフィシュアが消えた方向を見据えた。
「まあ、でも今回は別にこうしなくても立ち上がってそうだったけどな」
 それとも、これも図られている内か。
 事はほとんど狂いなく長兄の思う通りに進むのだろう。与えられた役目を終えたドヨムは、一応報告しておくか、と自身も泉を離れて、珍しく早く会議室に向かうことにしたのだ。
 
 
 
 
 

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