ただ熱があると、そう聞いていたから単純に熱があるのだろうと思っていた。
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たぷん、たぷんと音を響かせながら、その人物はよろよろと廊下を行っていた。その後を、絨毯の床に出来た黒い染みが追いかける。
一体何が起こっているのかと見てみれば、少女の面影を残す侍女は、体格に似合わぬほど大きな盥を両手で何とか抱えていた。その中で、いっぱいに張られた水が、彼女が歩を進める度に波を立てては零れ落ちていたのだ。
「何をしている?」
あ、と驚いたように顔を上げた栗毛の侍女は、そのまま慌てて礼を垂れて廊下の端に退いた。辛うじて回廊が水浸しにならなかったのは、ついて来ていた侍従が寸での所で盥を水平に保ったからであった。
「あ、はい……トゥーアナ様の部屋へ水を運んでおりました」
二週間前にやって来た王女が熱を出して伏していることは聞き及んでいたので、ああ、なるほど、と納得する。あんなことがあった上に、望んで来たとは言えいきなり環境が変わったのだ。だから、熱を出すのも無理はないだろう。
「だが、その水は多すぎないか?」
歩けば零れる程の水を一度に運ぶ必要はあるのか。無くなった時に、また、注ぎに行けばいい話である。しかし、侍女は首を振った。
「これでも全く足りないのです。すぐになくなってしまいます」
そんなに酷いのか、と問えば、口を開きかけて言い淀んでから首肯が返った。
「お薬を決して口にされようとはしないのです」
「何故?」
「私には何故かよく分かりません。ただメレディ様も仕方がないと」
それでも、お薬だけはメレディ様も毎回用意されているのですが、と彼女は続けた。
「訳が分からないな」
「……はい」
言えば、戸惑ったように肯定される。しかし、それほどまでに彼女も困り果てているのだろう。それほどまでに、彼の王女の熱は高いのだろう。
だから、少しくらい覗いてみるかと思った。しばらく留め置くと決めたばかりの王女が、一か月もたたぬうちに死んでしまってはさすがに後味が悪すぎる。
しかし、入室してみれば、思った以上の驚きがそこにはあった。
寝台に横たわっていたトゥーアナはあの夜の面影を失っていた。
「何だ、これは。本当にただ熱が出ているだけなのか?」
淡く光っていた金の髪はほつれて、ぱさつき、唇は艶がなくひび割れている。薄い寝着を纏った体は、色を灯して、汗にまみれていた。脇にも、首にも、額にも水袋をあてがわれ、うすらと開かれた紫の双眸はどこを見ているのかすら分からず、彷徨っていた。
「メレディ殿?」
寝台の傍らの椅子から立ち上がって、退いた老女に問いかける。だが、彼女は首を振っただけだった。
空けられた椅子に腰を下ろし、浅く深い息を繰り返すトゥーアナを見る。
「大丈夫なのか、これは?」
触れた頬にはあの日の冷たさなど微塵もなくて、代わりにじんわりとした湿り気が掌に伝わる。金の睫毛が微かに震えて、だが、こちらに首が向けられることは無かった。これは顔に張り付いた髪をどかしてやっても無駄だろう。
ふと目に入ったのは、白くて丸い陶器の器だ。寝台の横に設置されていた台に置かれた小さな器にはすりつぶされた濃緑の薬汁が入っている。これが先程の侍女が言っていた薬なのだろうと、何気なく手にとってみたら、香ったのは知っている匂いであった。鼻を刺激する、甘さに混じった苦みのある香である。独特なこの香は、一度嗅げば忘れられない。覚えさせられたものなら、尚更である。
「……避妊薬か」
メレディは口を噤んだまま、代わりに、妙な沈黙だけが部屋に落ちた。
それは、肯定以外の何でもないだろう。
そして、それならば、この高熱の答えは簡単すぎるものなのだ。
兄に苛まれ続けていたこの王女が避妊薬を服用していたことなど、何らおかしいこともなく、そこに矛盾はない。ただ、熱が出ているということは、必要としなくなってから一切この薬を口にしなかったのだろう。
避妊薬の効果は高い。しかし、その分副作用も高い。彼女の高熱はぱたりと急にやめた薬の反動による副作用に違いなかった。
使う薬を少量ずつ減らしていけば、副作用などさほど問題はないものだ。体が薬に頼ることに慣れていったように、少量ずつ減量すれば頼ることをやめることにも体が慣れていくから。それでも、体調に多少の影響が出ることがあると聞くのに。
「何故薬を口にしない?」
この答えも分かってはいる。だが、それでも、熱を出してまで耐えるようなことではないだろう。少しずつ減らしていったとしても、二か月もすれば、問題なく薬から解放されるだから。
力を失っている体を抱き起して、無理矢理薬汁の入った器を彼女の口に近づける。けれど、彼女はどこまでも頑なだった。腕などは弱々しく流れているのに、口だけは開かなかった。
「飲め」
背後から制止の声がかかる。叫びに似た悲痛な声だった。
だが、俺からしてみれば、何故無理にでも飲ませないと問いたいのだ。少量でも飲ませることができれば、楽になることは分かり切っていると言うのに。
硬く閉ざされた口を指でこじ開けて、器の中身を流し込む。
けれど、音を立てた喉は異物が体に入ることを拒否した。身をかがめて、奇妙なくぐもった声を出しては、中身のない胃液をトゥーアナは吐き出す。
酸の匂いは苦みに混じって辺りに立ち込めた。
「……そんなに嫌か」
汚れた口を己の服の袖で拭ってやる。制止の声が今度は別の方から上がったが、大して変わらないからどうでもいいだろうと思う。
薬汁のついてしまった金の髪の束がそのまま固まらないようにと、解いて取った。
「俺は貴女に子を産ませるつもりはないのだが」
だから、そんなに頑張るな、と。どうして楽な道を選ばないのだろう。
ぼんやりとしていた紫の瞳はより細まって、眠気を感じているのは起きているのも辛いからに違いないのに。
閉じられた口は、微笑んだような気さえした。
呆れを超越するのはこういう時なのかもしれない。
掛布でくるんで、そのまま、前より軽くなりすぎている体を持ち上げる。
「あの、陛下……どこに……?」
侍従はおずおずと問うた。
「浴場。さすがにこれは気持ち悪いだろう。受け渡してくる」
ただでさえ、汗にまみれているのに、嫌いな薬汁と胃液にまみれていたら余計気分が悪くなりそうだ。
侍従をすり抜けたら、メレディが安堵したようについて来る。
近くになった顔には、もう表情がない。意識を手放したのか、瞼はゆるく閉じられていた。
「常蓄している氷はそんなに多くはないんだがな……?」
漏れた言葉は、汗で張り付けられた淡い金の髪を揺らすことは無かった。
ただ、流れ落ちた彼女の髪だけが、歩く度にゆらゆらと揺れていたのだ。
(c)aruhi 2009