ラピスラズリのかけら 5:継がる名 16 紡ぎの言葉【1】

 

「ホーク!」
 
 フィシュアは皇宮の外廊を走りながら、併行して飛ぶ茶の鳥に命を出した。
「シェラートか、……もしくは、義姉様を探せ」
 ホークは了承の意を主に伝えることなく、前を行き過ぎて一気に空へと舞い上がった。
 フィシュア自身は北の塔へと足を向ける。
北西の賢者であるシュザネのところにテトとシェラートがよく出入りしているのを知っていたからだ。シェラートがいるとしたら、北の塔である可能性が高い。でなければ、彼の契約者となったというイオルのところであろうと、そのことも分かってはいたのだが――――
 
 しかし、結局、北の塔へと行きつくずっと手前で、フィシュアは足を止めざるを得なかった。
 帝国における政務のほとんどが執り行われる中央棟。外廊から応接間へ抜ける階段の前に彼はいた。
この皇宮内において、黒髪を有する異国人はただ一人。間違えたくても、間違うことの叶う要素は一つもなかった。
 
「―――シェラート!」
 
 フィシュアは彼の名を呼ぶ。
 つい今まで義姉と話し込んでいた黒髪の男。ゆったりとフィシュアの方を向いたのは、やはりシェラート以外の誰でもなく、彼はいつもと変わらぬ様子でその場に立っていた。
 シェラートの隣では、同様に振り向いたイオルが「あら」とにこやかに笑んだ。
「フィシュア、今日の会議のことはもう聞いた?」
「…………ドヨムから聞きました」
 軽く息を吐いて、乱れたままだった呼吸を整えて抑える。それから、フィシュアは二人の元へと歩いて向かった。
「どうかしたのか?」
 シェラートが問う。息を切らして、突然姿を現したフィシュアをシェラートはさも不思議そうに見た。
「どうかって―――!」
 叫びかけて、けれど、フィシュアは一度口を閉じた。
 ここは皇宮。そして、ここにいるのは皇太子妃。外ではない。外と同じではいけないのだ。
だから、彼女は溢れだしそうな奔流を留めようと試みる。これは抑え込むべきものなのだ。だが、全てを堰き止めるには、流れは大きすぎた。はみ出してしまった気持ちは、険として表れてしまう。
「どういうことなの? どうしてシェラートが義姉様と契約する必要があるの? どうして契約してるの?」
せめて口調だけは、とフィシュアはシェラートを睨んだまま、努めて静かに言った。
 相対した翡翠の双眸は、ずれはしない。
 しかし、止まった時間も一瞬の間だけだった。深い嘆息と共に、視線は呆気なく逸らされる。
「何だ、そのことか」
「どういうことか説明して。私は何も聞いてない。どうして断らないの? 私の時は断ったじゃない」
「だからだろう? フィシュアは契約者じゃない。だから伺いをたてる義務も俺にはない」
「―――だけど!」
「誰と契約するかは自分で決めることだ。フィシュアには関係ない」
 シェラートの断言は事実しか語らない。
反論する術をフィシュアはもたないのだ。
そもそも憮然としたシェラートの表情からは何も読み取れはしなかった。それ故に、これ以上言い募ることもできなかった。
それでも、正論を述べられたからと言って、くすぶった想いを消せるものでも、またなかった。フィシュアは、今度は彼の契約者となったイオルの方へと向き直る。
彼女の表情を見たイオルは、口に手を当て、ふふと声を漏らした。
「何かしら、フィシュア?」
「……義姉様、私」
「あら、フィシュアが、あの時言ったのは“彼ら”であって“彼”ではないでしょう? 巻き込んだのは彼一人、問題はないわ」
 詭弁にしか聞こえない言葉。しかし、彼女の言葉には自信しか満ちていなかった。『是』と言わざるをえぬような威厳さえ持っていた。
 それにね、とイオルはフィシュアの頬に細く長い五指を伸ばす。自身の木目細かいものとは掛け離れた義妹の肌に触れたところで、義姉である彼女は口角を上げた。
「初めに巻き込んだのはフィシュア、あなたの方でしょう? ロシュが今、生きているのは何故? 大体、本当に関わらせたくないと思っていたのなら、皇宮に連れてくるべきではなかったでしょうね。その辺のこと、あなたなら良く分かっていたはずでしょう、フィストリア(五番目の姫)?」
 フィシュアが唇を噛み締めたことも、シェラートが顔をしかめたことも、イオルにとっては面白みを持つ要素にしか成りえなかった。
「ねぇ、そんなに彼らの傍は心地好かった? だから、まだ離れたくないと思ってしまったのかしら?」
 最後に、イオルはフィシュアに目をとめたまま小首を傾げた。よかったわね、と楽しそうに笑って。
 白く美しい手が遠のいていく。その様子を、フィシュアは見つめているだけだった。
 ここにあるのは、自分がもたらしたことでしかないと、教えられた。
 顔を歪めても、変わるものなど何もありはしない。
「……契約は、無効にはできないの?」
 フィシュアは、シェラートを見上げた。もう縋るものは何もないと解していても、尋ねずにはいられなかった。
 シェラートは口を開く。だが、実際に答えたのは別の人物であった。
「あったとしても、無効にするつもりはないわよ。ジン(魔人)がこちらの陣営につけば、優に転がるのは考えずとも承知でしょう」
 イオルは目をすがめた。無益な問答はこれで終わり、と皇太子妃は暗に告げ、警告する。
 フィシュアも引かざるを得なかった。感情に任せて押しやるのは、ただの我儘でしかない。どちらにしろ、もう動けはしないのだ。
 フィシュアはイオルを見据え、だが、堪え切れずに目を伏せた。
 
 茶の鳥が舞ったのはその時であった。
 主の横をすり抜けて、ホークは一直線にシェラートの方へと向かう。しかし、強靭な羽を持つはずの鳥は、掴むべき風を失って落下した。
 床へぶつかる直前、風がふわりとホークをさらって、ゆっくりと着地させる。
「ホーク! もういい」
 フィシュアは、非難をぶつけ続けるホークの傍に屈みこんで、茶の羽を撫でてなだめた。
「義姉様たちは悪くない。正しいことをしただけ」
なぜなら、この選択は帝国にとって有益すぎることなのだ。例え、それがジン(魔人)に頼る危険性を鑑みた上であったとしても。
ジン(魔人)の力は人間では到底太刀打ちできるものではなかったのだから。
魔から護ると言うラピスラズリなど役にも立たなかったことを、痛感したはずではないか。こちらの陣営の損害が減るのなら、この選択は正しいものであって、受け入れるべきもののはずである。
「私は納得したから、ホークも行きなさい」
 フィシュアはホークの背を押して、促す。しかし、ホークは一向に飛ぶ気配を見せなかった。
 溜息を吐いて、フィシュアはホークを抱きよせ、立ち上がる。鋭い鉤爪が、腕をかすった。それに気付いたのか、すぐさま足は羽の中と引っ込められたが、過ぎた痛みは変わらない。
しかし、フィシュアは痛みを表面には浮かべず、ただ目の前に立つ彼を見据えた。
 
「それでも私は、ジン(魔人)から戻す方法だけは勝手に探すから」
 
 これまでも各地を回る際に、それとなく話題に出して尋ねてはいた。めぼしい情報など、まだひとかけらさえも見つかってはいない。だからと言って、これを機にやめるつもりもフィシュアには毛頭なかった。
 彼女の宣言は、片側にしか壁のない廊下には響いたりはしなかった。
 フィシュアは、彼らに背を向けて、そのまま階段へと足を運んだ。
「どこに行くの、フィシュア?」
 イオルが問いを投げる。段に足をかけたフィシュアは、そこで立ち止まってイオルを見やった。
「先に行きます。また会議室で」
「ホークも?」
「気がたっているようなので、上で放ちます」
「ついに私まで嫌われちゃったかしらねぇ?」
 フィシュアはイオルの言葉を否定しようとして、その先をイオルに阻まれた。
「フィシュア。今日、ヌツデラ候。昨日、駄目だったから」
 イオルの優雅さは損なわれることはない。今日も彼女はいつものように、フィシュアに命じる。
「……義姉様、本当に容赦ない」
 ほろ苦い笑みを口元にひらめかせてから、フィシュアは残された階段を登るべくまた一歩、足を進めた。
 
 
 
 

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