ラピスラズリのかけら 5:継がる名 17 紡ぎの言葉【2】

 

 イオルは隣をちらと見やって、忍び笑った。「ねぇ?」と彼女はシェラートに呼び掛ける。
「さっき一瞬、ものすっごく傷ついた顔をしてわよねぇ?」
「お前のせいだろ」
「さぁ、どうかしら。私のせいだけではないと思うんだけど?」
 イオルは首を傾かせて、シェラートを見上げる。シェラートは鬱陶しそうに深々と息を吐いた。それを受けて、イオルは面白そうに目を細める。
「シェラートはそんなのばっかりね」
「それは、お互い様だな」
「いいえ、違う」
 イオルはシェラートの前へと回り込んでから、「全く以って全然違うわね」と薄く微笑を刻む。
「私は一つだけあればいい。他は顧みない。だから、あなたは厭ったのでしょう? 今も心の内では嫌悪しているのでしょう。傷つけられたら、困るもの、ね?」
 裾を翻したイオルは、そのまま階段へと向かった。
「シェラートはどちらかと言うと、オギハに似てる。だけど、彼とも決定的に違う」
トントンと軽やかに階段を登り、イオルは段上でくるりと振り返る。「それからもう一つだけ」と、彼女はシェラートへ向かって人差し指を指し示した。
「シェラートが気になっている“かも”しれないこと。シェラートが思っているのより、いーーーっぱいいるのよ? フィシュアは一応皇女様ですから?」
 イオルは伸ばした腕を水平に保ったまま、にんまりと笑みを深めた。艶やかな唇は花が咲き綻ぶように優美な形に歪められる。
それは、氷の中に閉じ込められ、一番美しい姿のまま時を止められた生花を思わせた。だが、実質的な支配をしいているのは氷の方ではなく、佇む花の方である。人は花の鮮やかさにばかり目を奪われ、氷になど気にも留めない。いつの頃からか常となった理を無に戻すことは不可能だ。今となっては彼女もそのことをよく理解していた。彼がよく知っているということも。
だから、皇太子妃は彼女のジン(魔人)の名を呼ぶ。
「ここから先はいつか自分で聞いてみるといいわ。私は義姉上から受け継いだだけだからね。どちらにしろ、全ては知らない。ま、気になるなら、だけど」
 伸ばされた指は降ろされる。
 しんと静まり返った階段。打ち破ったのも、またイオルの方であった。
「さて、私もオギハに会いに行かないと」
 冷ややかだった表情とは打って変わって、イオルはうきうきと告げる。
イオルは跳ねるように階段を登った。彼女の足を受け止めているはずの段は、僅かな足音さえ響かせない。
 シェラートは仕方がないので契約者の少し後ろに並び歩いた。それを認めて、イオルは尋ねる。
「用意は?」
「できてる。繋いであるから、いつでも大丈夫だ」
 ふぅん、とイオルは自身の指を一本、唇にあてがう。
「そう、ご苦労さま」
 シェラートに軽い労いをかけてから、イオルはまた一つ、トンと段を跳ね登ったのだ。
 
 
*****
 
 
 灯火が点された回廊。連なる扉の内の一つ。暗くはないが決して明るいとも言えないその場所で、彼女は「何があったのか教えてあげましょうか」とシェラートに問うた。
 シェラートは硬い表情のまま、声のした方へ顔を向ける。先程すれ違った人物。きちんと顔を会わせたことはまだ一度しかない。皇太子妃であるイオルは、腕を組んで回廊に立っていた。イオルの数歩後ろには侍従が控えている。まるで待ち伏せでもしていたかのように、この場に佇む彼女にシェラートは尋ね返した。
「何があったのか?」
「そう、何があったのか」
 イオルは柔らかに相好を打ち崩し、目を義妹へと向けた。彼の手によって抱き上げられているフィシュアは、シェラートの肩に頭を預けて眠っている。寝息さえ立てぬその様は、ジン(魔人)に支えられていなければ糸を断ち切られた人形とさして変わりはない。
「と言うより」とイオルは苦みを宿しかけて、やめた。
「……まあ、いいわ。どうしてフィシュアが眠っているのか知らないけど、まさかその恰好で寝かせるつもりじゃないでしょうね?」
こんこんと眠り続けているフィシュアからは、廊下ですれ違った時にあった筈の傷が跡形もなく綺麗に消え去って、癒えている。しかし、ところどころ焦げ千切れた服には少量ではない血がまとわりついたまま。服の合間からのぞく腕も足も、そして顔も灰ですすけ汚れたまま。皇太子のそれよりも幾分か薄い色素を持つ長い髪には熱によってか縮れまで混じっていた。
シェラートは押し黙ったまま何もしゃべらない。どうやらそこまで気が回っていなかったらしいことは容易に見てとれた。
「その娘をこちらに渡して」
イオルはシェラートに向かって手を差し出す。当然だとでも言うような動作であった。
だが、彼女の掌には何も与えられず、何も触れなかった。代わりに夜の静寂が載せられたのみだ。
皇太子妃は肩越しに付き従っていた侍従長へ命を出す。
「ファッテ、フィシュアを。―――これでいいんでしょう?」
  イオルの投げかけには答えず、シェラートはフィシュアを見る。
しかし結局、両腕を差し出し、自身の目の前に進み出てきていたファッテへと、シェラートは無言でフィシュアを託した。渡す以外に方法もない。それ故に、重みは呆気なく他へと移されたのだ。振動を受けたにもかわらず、眠りに落とされたフィシュアは身じろぎさえしなかった。強制された眠りが揺り起こされることはない。
イオルはフィシュアの体が完全にファッテの手に渡ったのを待ってから、亜麻色の扉をコツンと叩いた。
「騒動があったからといって皆が皆、持ち場を離れている訳ではないでしょう」
 皇太子妃の推測を裏付けるかのように、すぐさま一人の侍女が顔を出した。部屋の主が無事に戻ってくることを心待ちにしていたらしい。輝かんばかりの表情をのぞかせた彼女は、だが、扉前に立っていたのが皇太子妃であったことに対して、戸惑いを滲ませた。けれども、皇太子妃の後方、侍従長であるファッテに横抱きにされている人物が誰であるかに気付き、瞬時に表情をこわばらせることとなった。
 口を覆って悲鳴を呑み込み、小刻みに震え出した年若の侍女の肩にイオルはそっと手を置いた。
「フィシュアの血ではないわ、安心なさい。眠っているだけ。
―――ここにいるのはあなた一人?」
 尋ねられた彼女は声もなくふるりと一度首を横に振って否定してから、「私の他にもう一人おります」と蒼白ながらも毅然とした口調で言った。
 そう、とイオルは静かに頷く。
「それならば湯の用意をなさい。このままファッテにフィシュアを運ばせます。私達は寝室で待機しておくわ。汚れを落とし終えたら、フィシュアのことはまたファッテに頼みなさい。今夜はそれ以外の何びともフィシュアの寝室へ入れることを禁じます。―――もちろんあなた方も」
 皇太子妃から見据えられた侍女は重々しく彼女の命を受諾する。それから、扉をさらに引き開き、回廊に居並ぶ面々を部屋の中へと招き入れた。一度頭を垂れた後、準備を整えるべくパタパタと足早に立ち去る。
 
 イオルはファッテを先に行かせた後、「シェラート殿?」と回廊に立ったままであるジン(魔人)に呼び掛けた。
「今はまだ帰られたら困るのだけど」
「安心しろ、まだ帰るつもりもない」
 シェラートはためらいもなく答えた。
部屋に残してきたテトが心配ではある。テトは今もフィシュアのことを案じて待っているだろう。だが、イオルにこの場からしりぞくつもりがないのなら、シェラートもまたこの場から離れるわけにはいかなかった。信用ならないのである。何を仕掛けてくるのかがはっきりとしていない分、フィシュアの兄だというトゥッシトゥス(三番目の皇子)よりも性質が悪かった。
 どちらにしろ、何事もなく部屋に帰してくれるはずがない。
 イオルはテトの方へと回るだろう。フィシュアがだめだと知れた、その時は。ならば、ここに留まっていた方が得策だ。初めから分かっていたことである。いつかは否が応でも関わり合いにならなければならないのだろう、と。シェラートがジン(魔人)である限り、そして、このままの状態でここを離れない限り。
あの時のイオルは、テトとフィシュアどちらを手中に置いておけば、より都合よくジン(魔人)が動くかを計っていたのだから。結局のところ、そのどちらでもなかった故に、この状況がもたらされたのだ。
「そう? それはよかった」
 イオルはふふと微笑を洩らす。耳を苛む笑い声は何ともわざとらしく優しげに響く。
 シェラートは誰に促されるまでもなく、彼女よりも先に、自ら中へと入り行った。
 
 
 
 
 

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