ラピスラズリのかけら 5:継がる名 18 紡ぎの言葉【3】

 

バルコニーに繋がるガラス扉の向こうでは、夜のさやけさが広がる。
 日中、空を覆い尽くしていたはずの雲はいつの間にか取り払われていたらしい。ところどころ薄く広がっている雲は星光をほんのりとかすめさせるだけ。一粒の雫も落ちて来そうにはない。
 代わりに、やおら丸みの欠けた十六夜の月が、周りの星々までも圧倒して夜空における支配を深めていた。
 こうこうと輝く月は、窓の内にも手を伸ばす。頼りなく揺れている灯火の芯よりも、漏れ入る月光の方が部屋の中を明るく照らし出しているようでもあった。
 
「まぁ、適当にくつろぎなさい」
 義妹の寝室に入ったイオルは、まるで自分の部屋を歩くかのようにすいすいと進みゆき、ためらいもなく寝台の縁に腰かけた。
 シェラートも皇太子妃の後に続き中に入る。途端、彼はフィシュアの部屋に足を踏み入れた時から感じていた漠然とした違和の正体に気付かざるを得なくなった。
 通って来た部屋のどれもがとても広々としたものだったのだ。自分とテトに与えられた客室よりも皇女であるフィシュアの部屋の方が広いのは当然と言えば当然であろう。しかし、それでも“広い”と感じてしまった。小奇麗にまとめられた空間は雑多なところがまるでない。配置されている調度品は見るからに質がよいのに、どこまでも簡素に見えた。むしろ、宿の方が生活感はあったように思う。
 シェラートは、鏡台に並べられていた香油瓶に目を留めた。そこだけが、部屋全体にある纏まりをわずかにうち崩している気がした。
彩り豊かな瓶は、灯火と月、どちらの光も受け、複雑な陰影を作り出している。中でも、深い青紫の小瓶に入った香油は夜の海によく似ていた。
 シェラートは見覚えのある小瓶の一つに手を伸ばしかけ、だが、指先に触れるかというすんでのところで、「さて」という声に遮られることとなった。
「さっき言ってたこと。何があったのか、だけどね」
イオルは、対面するジン(魔人)に人のよい笑みをつくった。けれども、一見和んでいる双眸は、見据えられたまま、焦点がずれることはない。
そうして、皇太子妃は話を切り出した。
「フィシュア達はね、皇都で襲撃にあったのよ。――ジン(魔人)の」
「それは知ってる」
 寸の間、場で揺らめいたのは光源が壁に映し出した薄暗い影の群だけであった。奢りさえも含んで告げられたはずの情報は、シェラートによって呆気なく受け入れられた。驚愕したのはイオルの方である。
 シェラートは目をすがめた。あからさまに驚きをのせた女の様を大した感慨もなく見やる。
「何だ、それだけか?」
「え?」
「それだけなのか、と聞いている」
 問われたイオルの方は、ようやく自失から立ち直った。急に深みが増したジン(魔人)の翡翠から慌てて目を逸し、口を開く。
「――ちょ、ちょっと、待ちなさい! ……まだあるわよっ!」
 頬を紅潮させて息まきながら、皇太子妃は寝台の掛布を握りしめた。己を律するがごとく深呼吸をして、呼吸を取り戻す。それから、彼女は改めてシェラートと向きなおった。
「だけど……、その前に教えてもらいましょうか。なぜあなたがこの事実を知っているのかを。私達だって、シュザネ様から聞いたばかりよ。ようやく意識を取り戻したシュザネ様から、ね」
 尋ねつつ、イオルは一つの可能性に思い当った。軽く吟味してみてから、彼女はシェラートに対しての問いを重ねることにする。
「もしかして、フィシュアから聞いた? あの状態でよく話が聞けたわね。ちょっと駄目かと思っていたわ。そのくらいにはフィシュアも落ち着いていたってこと?」
「きちんと聞いたわけじゃない。どちらにしろ、聞く前から知ってた」
「知ってた? どういうこと?」
 イオルは首を傾げる。同時に肩から滑り落ちた薄茶の髪の束は、光を受けて琥珀にも似た色を含ませた。
シェラートは束の間だけそれを眺めた。
「――そのままの意味だ。見れば分かった。皇都位の広さなら、ジン(魔人)が発した魔力ぐらい捕捉できる。その内のものと、フィシュアとロシュのが同一だった」
「へぇー。じゃあ、ジン(魔人)が魔法を使った時点で気付いていたということよね? それなら、なぜ助けに行かなかったの? 傷を被ったのは、フィシュアにロシュにシュザネ様。おかしいじゃない。シェラート殿、あなたなら迷うことなく真っ先に駆けつけそうなのに」
「あのくらいならジン(魔人)の間では日常的に起こってる。結びつけろと言う方が無理だ」
 あのくらいねぇ、とイオルは皮肉気に漏らした。弾力のある寝台の表面を、彼女は指でトントンと打ち叩く。
「それは、あなたの感覚でしょう、シェラート殿。ジン(魔人)にとっては些細な力も人間にとってはそうじゃない。事実、北西の賢者であるシュザネ様だって回避できてないじゃない。ロシュなんかは死んでいたも同然。そうでしょう?」
 シェラートは黙した。彼も昔は知っていたことである。そして、いつの間にか忘れてしまっていたこと。ジン(魔人)として過ごしてきた年月は疾うに人間だった時のそれを追い越している。ジン(魔人)にとって当然の感覚は、彼にとっても馴染み過ぎていた。そのことには、シェラート自身も突然部屋を訪ねてきたフィシュアを見た時点で、気付いてはいたのだ。
 それに、とイオルは続けて言う。
「こっちのことこそフィシュアから聞いていなかったの?」
「何のことだ?」
「だから、ジン(魔人)のことよ」
 怪訝そうな感情を深めたシェラートを見、イオルはさもおかしげにふっくらと形の良い唇を歪めた。
「私達は、随分と前から知っていたわよ? フィシュアから報告が来ていたもの。『ジン(魔人)及びその契約者が皇都を襲う恐れがある』と。だから、“ジン(魔人)”と聞けば嫌でもその可能性に結びつく。結びつかない方が無理よ」
「いつから」
「あなた達が皇宮にやってくる三週間ほど前かしらね。けれど、出会っていたはずよ。あなた達のことについて書かれた手紙もすでに受け取っていたもの。ジン(魔人)と契約者の少年、そして、エルーカ村の疫病」
「なら、ほとんど始めっからか」
「そうゆうことになるでしょうね」
 口を閉ざし、過去を探っているらしきシェラートを、イオルはしばらく眺めやった。それから、彼女は「ねぇ、悲しい? 何も知らなかったこと」と彼に問いかけてみる。
 じろじろと凝視してくる紺碧の双眸から逃れるようにシェラートは顔をそむけ、長く息を吐いた。
「別に。言う言わないはフィシュアが決めたことだろう。強制するものでもないし、あの時はここまで関わり合うつもりもなかった。それはフィシュアにとっても同じだろう」
「じゃあ、悲しい? 何もできなかったこと?」
 シェラートは、イオルをねめつけた。しかし、イオルの方は答えを期待していた訳ではなかったらしい。俯いた彼女の目線は、皺の寄った掛布をならしゆく自身の手の動きを追っている。滑らかな質感を楽しむように、座している寝台の掛布を撫でながら、彼女はまたすぐに口を開いたのだ。
「少なくとも私は悲しかったけどね。ずっとすごく悲しかったのよ、何もできなかったことが。だから、役に立てる手段があると知った時には嬉しかった。無理なのだと悟ってしまった時は絶望した。最終的に自分で線を引いたのはきっとそのせいね。結局、あの人の夢を摘み取ったのも、破滅させたのも、他の誰でもなく私でしか無かったもの。何でもいいから、私であって欲しかったのよ、あの時は。…………本当に、今ここにまだ“私”が存在していることが不思議で仕方ないわね」
 最後にイオルが零したのは独語めいたものだったのかもしれない。シェラートは、一体何の話をしているのだ、と不可解さを抱えながらも、遮ることも出来ずに耳を傾けていた。それは、彼女の言葉の中に過去への郷愁が潜んでいたからなのだろう。
 結局、シェラートが何かを発する前に、イオルはすっと顔を上げた。何事もなかったかのように、先と変わらずジン(魔人)に視線を定めたのだ。
「それから、もう一つ分かっていることがある。今日彼らが遭遇したのはジン(魔人)だけじゃない。これはさすがに知らなかったでしょう? ジン(魔人)に指示を出していたのは、先代フィストリア(五番目の姫)の元婚約者――フィシュアともとても親しかった人物ですって。だから、フィシュアも傷つけられはしても、傷つけることができなかったのかもしれないわね。頭で考えるようには何事も上手く運べないもの」
「親しかった人物?」
「そう、名はナイデル。幼い頃、フィシュアは彼をすごく慕っていたそうよ。彼もフィシュアを可愛がっていたようね」
 ならば何故、とシェラートは素直に眉をしかめた。シェラートの疑念を見て取ったイオルは「簡単よ」と彼に答えを示す。
「なぜなら、これも遠い過去の話だもの」
 理解に苦しむところなどイオルにとってはどこにもない。「結局はそれが全てなのよ」と彼女は静かに語った。
「ねぇ、知ってる? 代々、それぞれ第五位までのトゥス(皇子)とトリア(皇女)は次代のトゥス、トリアの教育に携わるっていう慣習がこの国にはあるの。そうやって、彼らの座と役目は長い間継がれてきた。このトゥスとトリアの称号の受け渡しは、常時においては皇帝が代替わりする時――それまでの皇太子が皇帝となるのと同様に、新たな皇帝となった者の子どもたちに対して行われる。
けれど、フィシュアがフィストリアになった時、現皇帝――彼女の父はまだ皇帝の座についてはいなかった。フィシュアは、異例として通常よりも早くその座に就いたの。なぜなら、先代のフィストリアが突然亡くなったせいで、フィストリアの座が空いてしまったから。他の役目なら、数年やそこらの期間、他人が成り変わっていたって問題はない。でも、皇帝と宵の歌姫だけは代替がきかない。だから、フィシュアも受け渡された」
「それは、……フィシュアが子どもの頃から役目を負っていたことは聞いてる」
シェラートの言葉に、イオルは「ふうん」相槌をうった。
「あなた何でも知ってるのね。まあ、話が早くていいけど」
 イオルは、人挿し指の先でトンと自身の頬を打つと、腿に肘をついて顎を掌の上に載せた。
「じゃあ、ま、ここからが、襲撃者についての続きね。先代のフィストリアは亡くなったと言ったでしょう? 彼女、自殺してるのよ。原因は、婚約者を失ったから。で、彼女の婚約者を殺害した犯人として間違いないだろうとされているのが、さっき出てきたナイデルって訳。フィシュアは、ナイデルを慕っていたって教えたわよね? 先代に対しても、彼女の婚約者に対してもそれは同じ。フィシュアは、彼らのことをとても好いていた。フィシュアは大好きだった人に大好きだったものたちを奪われたからこそ、フィストリアの称号を賜ったのよ」
 シェラートには、あの時フィシュアの顔が突然強張ったのはこれか、と思い当たるものがあった。珍しく笑うことに失敗していたから、びっくりしたのだ。
「だからかしらね」と言ってイオルは立ち上がり、寝台から離れた。ジン(魔人)が立っている鏡台までゆったりと歩み、近づく。
「あの娘には身近にあるものを守ろう守ろうとする癖がある。守る必要のないものまでね」
 皇太子妃は、ちらとジン(魔人)を一瞥してから、緩慢な所作で数並ぶ香油瓶の一つを列から抜き取った。
「大切に大切に守りたいものほど、本当のところは難しいのにね。それでも、あの娘はそうせずにはいられないのでしょう。可哀相にねぇ?」
 イオルは唇の片端を上げて嗤った。小瓶を眼前まで持ち上げ、中に入っている油がゆったりと揺れ動く様を、彼女はとくと眺める。青紫の小瓶の向こうに透かし見える世界は、歪みの生じていないものなど何一つ無い。
「シェラート殿、きっとあなたは知らなかったはず。あなたがいたあの場所、北西の賢者がおわす塔に、皇族は理由なく登ってはならないという暗黙の了解があるの。本来、魔女と賢者はある一定の国の政治に加担することを許し難いこととしているから。だから、あの場所は帝国の内であって帝国ではない。あの少年が通う学校だって似たようなものよ。皇立学校とは言っても、政治的介入は厭われる場所だもの。皇宮の者が頻繁に出入りすることは至極不自然。だからフィシュアは、ここに着いてすぐあなた達をそれぞれの場所に連れて行ったでしょう? この皇宮において、あなた達が今の今まで平穏に過ごせて来たのはフィシュアのおかげ。ずっと大切に守られてきたのはあなた達の方よ」
 イオルは、クスクスという嘲笑を部屋に響かせた。手にしていた小瓶を手中で転がす。かと思えば、今度は、まるで重みを確かめるかのように、香油瓶をポンと投げては己の掌で軽く受け止めるという単純な動作を繰り返し始めた。
フィシュアもね、ジン(魔人)に頼らないようにしてたのよ、ずっと。自分が頼ってしまったら、私達のことは、どんな理由を以ってしても退けることができなくなるものね。私達が手を出せないようにと注意を払っていた。あなた達がここに慣れてきてからは、あの娘自身、あまり近づかないようにしていたみたいだしね。けれど、結局は頼った。ロシュのことは私達にしてみれば幸運だったわ。
ねぇ、シェラート殿? あなたが望むのなら、これから入って来る情報は隠すことなく全てあなたにも伝えてあげる。ほら、少年の安全を確保するためにも必要でしょう? 他には、この先もここでの平穏な暮らしを保証するわ。こちらの条件を呑んでくれるなら、できうる限りあなたの願いだって叶えましょう。フィシュアには気兼ねしなくていい。どうせもう止める手段は持ってない。あの娘にできることは、もう何もないもの。だから」
「契約しろと?」
「そう」
 イオルは即答し、美しい笑みでジン(魔人)の受諾を待った。しかし、実際のところは待つほどの時間は要さなかった。シェラートが決断を下すのもまた早かったのだ。
「断る」と、だた一言。彼は変えるつもりのない自身の意志を告げた。
「断る?」
 イオルは片手でポンポンと香油瓶で遊び続けながら、さも意外そうにジン(魔人)を見上げた。
「何故? 心配じゃないの? あなたはそうなんだと思っていたけど。ずっとフィシュアに守られていたのよ? 守り返そうとか、それすら思わないの?」
「思わないな。お前がわざわざ教えたんだろう。だから、断る。初めから契約する気もなかった。契約のことを持ち出すだろうことは、お前に会った時から予想してたしな。だけど、ここに留まったのは、別の理由もあったからだ」
 イオルは目を細めた。しかし、口に出されぬ問いに答える義理などないし、答えてやる気すらシェラートにはなかった。
「皇都を襲うかもしれないジン(魔人)に関してだったな。そいつらに関しては、手を貸してもいい。お前が力を欲する理由はその為だけだろう。どっちにしろ、皇都にいる間は手伝わざるを得ないからな。お前が言ったとおり、テトがいる。それで充分だろう? 目的は果たせてるんだから。
ただし、テトには手を出すな。その瞬間、テトを連れて出る。後は知らん」
「じゃあ、あの娘たちはどうなってもいいのね?」
 シェラートは女を睨んだ。氷の名を持つ者の威を受け、彼女は知らず竦んでしまった体を、瓶を持つ手とは違う手で押さえた。
 ジン(魔人)は冷え冷えとした声音で告げる。
「脅しとしては不充分だな。出たらここで何があろうと俺は知る由もない。例えお前たちが何かをしたとしても、その場にいない者に対しては何の効果も持たないだろう、知り得ないんだからな。出るのはそっちの損失だけだ。結局のところ、お前は何もできない。だから、ここで諦めろ」
 イオルは震え出しそうな体を押し、それでも、何とか鼻で笑ってみせた。「そう」と頷き、香油瓶を投げる代わりに、今度は手中にきつく閉じ込める。
「……いちいち面倒な奴ね、あなたは」
「お前には言われたくない」
 終わりだと言わんばかりに、翡翠の双眸から鋭さが消え去る。凪いでしまった深みのある緑眼を見上げて、イオルは奥歯をギリと噛み締めた。
 
 
 
 

(c)aruhi 2009