ラピスラズリのかけら 5:継がる名 19 紡ぎの言葉【4】

 

 入室を請う声は前触れもなく部屋に響き渡った。
 皇太子妃は、ビクリと肩を震わせる。結果、彼女の手中を滑り落ちた香油瓶はあっさりと床に到達して、割れた。
カシャンと空虚な音を立てて粉々になった青紫の小瓶からは、とろりとろりと中身が溢れ出る。よく熟れた柑橘に似た香りは、甘く室内に広がっていき、だが、苛む程にしつこいものではない。シェラートは、その様子を他人事のように眺めていた。
イオルは倦怠感を伴わせた溜息を吐きだし、割れた小瓶の元へとしゃがみ込む。散らばってしまった破片に手を伸ばしながら、外で待っているだろう侍従に部屋へ入るよう促した。
「そのまま、寝かせちゃって。それから、悪いんだけど、割っちゃったのよ。片して行ってくれるかしら?」
 ファッテは皇太子妃の命をすぐに承諾してから、目を閉じたままのフィシュアの体を寝台に横たえる。
しかし、躊躇なく命を受け入れたにもかかわらず、彼が寝台から離れる気配はなかった。ファッテは寝台の横についたまま、部屋に集っていた二人を呼び招く。侍従長の面持ちの固さを見て取ったイオルは、近づきながら「何?」と彼に問いかけた。
「首に手の痕が」
「あら、ホント」
 重々しく、ファッテが示した皇女の首元、そこには確かにまざまざと手形が残っている。
 イオルは義妹が眠っている枕元に腰かけると、フィシュアの首へと手を伸ばした。
「大して白くもないのに、ここまで痕が残っているなんて……。かなり絞められているわね。ナイデルかしら?」
「恐らくは」
 ファッテは眉間の皺を深め、眼鏡の奥に潜む水色の双眸に映る光を強くする。皇族に仕え、彼らを長年見守ってきた彼は、当然フィシュアとナイデルの関係性も間近で見てきたのだ。
「容赦ないわね」
 義妹の首を優しい手つきで擦りながら、皇太子妃は吐息を零した。
「ねぇ、シェラート殿? さっき手当をしてあげたんじゃなかったの? 気が付きもしなかったの? こんなぎりぎりのところまで絞められたような痕に」
 細やかな指が、痣となってしまっている痕をなぞりゆく。残された痕は鬱血しているのか、赤みを通り越して、すでに青くなってきていた。皇太子妃の指が白い分、余計に凄惨たるものに見える。
 シェラートは呆然と、だが、食い入るように絞首の痕を見た。
 イオルから責められた通り、気が付きさえしなかったのだ。傷は全て癒し終えたつもりだった。しかし、それは本当に“つもり”でしか無かったのであろう。現に視界に入っていたはずの彼女の首元にはありありと痕が残っているではないか。フィシュアの首に巻きついた手形こそが、見えていたはずのものを、また見落としてしまっていたことをはっきりと証明していた。
シェラートは単に残っていたジン(魔人)の気配ばかりに気を取られていただけにすぎない。他に説明のしようがない、たったそれだけの理由である。
「まあ、フィシュアはこうやって戻ってきたんだし……」
 イオルはフィシュアの額をそっと撫でた。母が寝かしつけたばかりの子にするように、フィシュアの寝顔を覗きこむ。首に残された痣は、皇太子妃の陰に覆い隠されてシェラートからは見えなくなった。穏やかな眠りを強制された者が、自身の重みを静かに寝台へと預けているのが分かるだけだ。
 だが、陰の中で微かに光ったものの正体に、シェラートは戦慄した。
 皇太子妃は寝台の淵に腰をかけたままジン(魔人)を斜めに見上げる。
「早速取引を再開しましょうか。さすがに目の前にいたら気にせずにはいられないのでしょう?」
「――な!?」
 イオルは悠然と微笑した。戸惑いもなく義妹の喉元に割れたガラスの破片を突きつける。無造作に割れたガラスの切り口は鋭く、かすめる程度でも肌を裂くのは容易い。切っ先が当てられているフィシュアの首からは赤い血が滲み始めた。
「充分? 全然充分ではないのよ。手伝ってもらうだけじゃ足りないの。私が欲しいのは優先なのよ。いざという時に私の言葉を選んでもらわないと困るの。必要なのは契約なのよ。じゃなかったら、あなたが優先するのが何かなんて目に見えてる。それじゃあ意味がないの」
「お前、何してるか分かってるのか? 自分の義妹だろう」
「ええ、よおく分かっているわよ。私はこんな娘どうなったって構いやしない。どうでもいいのよ」
 イオルの告げていることに偽りは微塵も含まれていないのだろう。彼女の言に含まれているのは義妹に対しても無関心でしかなかった。
 シェラートは、フィシュアを自分の元へと引き寄せようと試みる。しかし、それは所詮無駄な努力であった。イオルが触れていたフィシュアに対して魔法は効かなかったのである。
「お前も持っていたのか」
「ああ、ラピスラズリのこと?」
 それならここに、とイオルはドレスの裾を手繰り上げた。幾重にか重ねられた薄布の下からは、手と同様、薄気味悪い程に白い足が覗く。皇太子妃の華奢な足首には、雫の形にあしらわれた藍色に濃く照り返す石の足飾りが付けられていた。
「残念でした。ちょっと早いけど、皇妃様が譲って下さったのよ。だから、私に魔法は効かないの」
「魔力の方が打ち勝てば意味がないってことを知らないのか?」
 シェラートは瞬時に自分の手中に魔力を集めた。ジン(魔人)の掌より生み出された風は、周りの空気をも巻き込んで、渦をつくる。
まだ仮定の域を脱してはいない空論。だが今、ラピスラズリが効果を成さなかった例だけは確かにできてしまっている。
初めてジン(魔人)の魔法を目の当たりにしたイオルは目を瞬かせた。風が起こっているはずなのに、ドレスの薄布さえ揺れることはない。けれども、集約された渦から、彼女は圧力に似た負荷を肌に感じていた。
「すごいわねぇ。もしかして、ものすごく怒ってる?」
 のんきな声で感嘆を述べたイオルは、だが、次の瞬間には体を硬直させることなった。またしても、正面からジン(魔人)の凄味にあてられたられた彼女は、束の間、呼吸の仕方さえ忘れていた。
彼がジーニー(魔神)と同等かそれ以上の力を持っていることを彼女は知り得てはいない。にもかかわらず、反射的にでも、すぐに翡翠の双眸から目を逸らすことができたのはイオルにとって幸運でしかなかっただろう。
「手をどかせ」
「――やっ……、嫌に決まってるでしょう」
 そう簡単に離す訳にいかないのはイオルにとっても同じである。彼女にとって、ジン(魔人)との契約はどうしても成し遂げなければならないものであった。
 皇太子妃は、ガラス片を容赦なくフィシュアの咽へとさらにくいこませた。抉られるほど深くはないものの、じんわりと滲む程度であった鮮血は、肌を完全に裂かれたことで、じわじわと溢れだす。
「――おまっ……」
「近づかないことね。そして、その目をどうにかなさい。じゃないと本当に手元が狂って殺してしまうわよ。まぁ、私はどちらでもいいのだけど。その時は悲しそうな顔でもして葬列に並べばいいだけの話だし? 何もこれが初めてのことではないもの」
 ジン(魔人)の手上で速度を増しゆく突風にイオルは目を向ける。それから、彼女は高らかな笑声を上げた。
「だって、どうせあなたは魔法を使えない。だから手に留めたままなのでしょう? もちろん報告は受けているわ。ラピスラズリでは防げない程のジン(魔人)の魔の威力。だけど、こんなに傍にいるのだものねぇ? フィシュアだってまた害を被る。あなたには分かっているはず」
 風は忌々しげにかきけされる。威嚇にさえならないのなら、魔力の規模がどれほどのものであっても、何の価値も持たないことはシェラートも認めるしかない。穴だらけの袋に必死になって風を送っては、その中に空気を留めようとしているようなものだ。
 フィシュアの首筋から流れ出る鮮血は鼓動に呼応してわずかに量を増す。肌の表面に少しずつ溜まっていった血は確実に領域を広げ、元々あった痣を覆い尽くし始めた。あと数分も経てば、敷布には赤黒い染みができるだろう。
 本来ならば、フィシュアはとっくに目を覚ましていたはず。彼女でなくても、こんなことをされれば痛みに飛び起きたはずである。それが叶わないのは、考えるまでもなく深い眠りへ故意に落とされているからだった。今更、自身が為した魔法を悔やんでも遅すぎた。過失は明らかにシェラートにあった。
「別に見捨ててもいいのよ? そうしたら、今度はあの少年の元に行くだけ。あなたの予想通りにね。だけど、少年の傍にはすでにこちらの人間がついているってこと、その可能性には思い当らなかったのかしら。随分と侮られたものねぇー?」
 イオルは、すぐ横に控えているファッテに同意を求めた。
 皇太子妃の傍近くに、ずっと佇んでいたはずの侍従長にはちっとも動じている様子がない。薄色の双眸を持つ侍従長は、押し黙ったまま、成り行きを見守っているだけだ。遠く離れた場所から事態を達観しているかのようである。
「残念だったわねぇ。ファッテだってこちら側の人間よ。あなたは最初っから間違っていたのだから。こちらに、フィシュアを渡した時点であなたの負けは変えられないの」
ね、これが本当に最後よ? とイオルは言った。
「フィシュアが死んだ後にでも、これがただの脅しでなかったと、しっかりと思い知るがいいわ。そうすれば、少年はもっと交渉に使いやすくなるでしょう」
くいこませたまま、停止させていた小瓶の破片を皇太子妃は横に滑らせた。ガラスの軌跡を追うように、すでにできていた血溜まりが左右に割かれゆく。
―――瞬間、シェラートは皇太子妃の手を自身の手で止めた。
「…………分かった」
 ようやく絞り出された声の方向を、皇太子妃は正確に見上げた。
何が可笑しいのか、弓なりにたわんだ紺碧の双眸を占めるのは愉悦だけである。
「契約を受け入れる。だから、……やめてくれ」
 シェラートは憂いなく眠り続けるフィシュアを見た。破片の突き刺さり方は浅いと言えるものではない。ガラス片の根元から、とめどなく溢れては首を伝い落ち続ける液体の生々しさに、彼は眉をひそめ、視線を逸らそうとして、しかし結局、できはしなかった。
「いいでしょう。でも、まだ駄目」
 彼女は純真無垢な笑顔を浮かべ、傷を癒そうとする魔の動きをラピスラズリを以って退けた。
「契約がまだでしょう。私がここで手を抜くと思った?」
 イオルはクスクスと嗤い続ける。
 シェラートは反論する意志さえ潰えた。時間がかかればかかるほど、先に診たロシュと同じ状態に近づいていく。せめて、それだけは何としても避けたかった。
 故に、ジン(魔人)は感情のない声で淡々と告げる。
「肩を出せ」
「肩?」
「そこに契約を刻む」
「ああ、なるほど。肩に刻むのね、……って、ちょっと待ちなさい!」
 頷きかけたイオルは自身の右肩口へとしゃがみ込み、肩に手を掛け始めたジン(魔人)を慌てて制した。
 怪訝な面持ちで彼女を睨み上げたシェラートに対して、イオルは今までになく真剣な面持ちで「これは困ったわね」とぶつぶつ呟く。
「まさか契約に肩が必要とは思わなかったわ……。皇家所有の証が消えてしまったら、私、生きていられるかしら」
「何の話をしてるんだ」
「だから、所有の証よ! 証もこっちの肩に付けられるのよ」
 皇太子妃の迷いの原因に、さすがの侍従長も多少呆れつつ口を挟む。
「妃殿下……消えても、また賜れば良いではないですか。どちらにしろ、いつかは自然と消えるものです」
「分かってる。分かってるけど、私にしてみれば、この繋がりが全てなのよ。頼もうにもオギハ、すぐに私を追っ払おうとするし」
「それならば、アーネトゥス(一番目の皇子)様には、私からちゃんと申しあげておきましょう」
 でないとせっかくここまで来た意味がありませんよ、とファッテは言外に告げた。つい先程まで、微動だにしなかったはずの彼は、皇太子妃の代わりに話を進めるべく、自らジン(魔人)の方へと向きなおって問う。
「そもそも、契約とは右肩でなくてはならないのでしょうか?」
「右肩の方がいい。左だと心臓に近いから交じりすぎる。だが、刻むと言っても、表面的には何も変わらない。人間には認知できないからな」
「そうなの。それなら、特に問題はないかしら?」
「問題ない。何も消えたりはしない。だから早くしてくれ」
「まぁまぁ、そんなに焦らなくても。ちょっとは落ち着きなさいよ」
「落ち着いてられるか!」
 怒気を強めたジン(魔人)から、イオルはすかさず目をそらした。「だから、それやめなさいって」と不平を洩らす。
 彼女は横たわるフィシュアをちらと見やって、汚れを知らない花が咲き綻ぶようにふんわりと笑った。皇太子妃には、錆びついた鉄に似た血の匂いを感じている様子がまるで見えない。彼女にしてみれば義妹ですらその程度の存在なのだ。そのことが、余計にシェラートの焦燥を呼んだ。
「大丈夫よ。これでも一応加減はしているのよ? 主要な動脈だって、まだ損傷させてはいないでしょう。ガラスを抜かない限りは、きっと何ともないわよ。でも、まぁ、さっさと契約させておくことに越したことはないわね。私も早く帰りたいもの。はい、どうぞ?」
 イオルは、もともと首周りが大きく開けていた淡色の服の右肩側をするりと下げた。皇家所有の証である印。見落としそうなほど小さく付けられた痕以外には沁み一つない真白な絹肌である。
 シェラートは一度目をつむった後、再び瞼を上げ開いた。皇太子妃の右肩に意識を集中させて契約に必要な流れを持つ脈を探す。この世界において、あらゆる物質の根底とされる、陽の光や、水、空気、土には見られない流れ――生ある動植物だけが持つ特有の脈流である。それは、どちらかと言えば前者の要素に近いジン(魔人)やジーニー(魔神)のものとは種を異にしたものだった。
見出した流れを、シェラートは指で触れて確認する。それから、彼は脈口を押し開く為に、契約者となる者の肩に口を寄せて自身の流れを注ぎこんだ。
 そうして、ジン(魔人)は契約の言葉を紡ぐ。
 
「ここに新たな契約を
風の力を以って宣言す
紡ぎ手は氷
調和と摂理を崩して繋がん」
 
 皇太子妃はきょとんとした表情で、ジン(魔人)が離れた自身の右肩をまじまじと見つめた。
「え、何? これで終わり?」
「そうだ。終わった」
 ジン(魔人)は頷く。しかし、イオルの肩には特段、何の変化も見られなかった。先に聞いていた通りではあったのだが、本当に何も起こってはいないかのようである。少なくとも、契約の瞬間を間近で目の当たりにしていたはずの皇太子妃と侍従長にはそう思われた。ただ淡々とジン(魔人)によって言葉が紡がれただけなのだ。
 皇太子妃は疑わしげにジン(魔人)を見上げる。そこで彼女は、はたと目を止めた。「なるほどね」と呟きを零す。
 皇太子妃は、自分のジン(魔人)となった彼の頬へ手を伸ばした。
「これで、私があなたよりも優位に立ったというわけか」
 翡翠の双眸は相も変わらず険を宿して彼女を見下ろしているというのに、そこにはあったはずの“威”が感じられなかった。自身の意志とは関係なく沸き起こっていた恐怖を覚えることも最早ない。彼らの立ち位置は、今となっては完全に逆転していた。これから先、契約者がジン(魔人)に脅かされることは絶対にない。
「フィシュアとでも契約しておけば、こんなことにはならなかったでしょうにね?」
「……余計、しない」
 苦々しげに言葉を吐きだして、シェラートは契約主の視線から顔を背けた。
 イオルは珍しいものでも見るように、彼を眺め続けながら言う。
「ああ。これ以上何かで縛るのが嫌だった? あなたはあの娘が負ってきたものを知っていたものね」
シェラートは何も答えない。だから、彼を見てきたイオルは「愚かだわ」とごちて、ジン(魔人)から視線を逸した。
「確かにフィシュアが負っているものは軽くはないのかもしれない。だけど、この国の皇族においてはそれが普通よ。むしろ、外を出回れる分あの娘はよっぽど自由。大体、皇族で無かったとしても人は何かしらに縛られているものでしょう。それが、役目にしろ、人にしろ。時には自ら増やすしがらみだってある。したがって、この娘だけが特別なわけじゃない」
 皇太子妃は義妹の喉元に刺さるガラス片から手を離して、寝台から立ち上がった。ジン(魔人)へと温度の無い視線を投げる。
「傷はちゃんと消しておいて。できれば小瓶の処理も。じゃないと、私が怒られる」
「……言われなくても」
 イオルは目だけでジン(魔人)の了承を受ける。シェラートは契約者の名を呼んだ。
「望みは?」
「皇都に近づく愚か過ぎるジン(魔人)を全員叩き潰すこと」
「簡単だ。すぐに終わらせてやる」
 そう、と皇太子妃は静かに答えた。
「なら、他は好きになさい。今まで通りで構わないわ。しかるべき時に、私の言葉を選んでもらえばいいだけだから」
 言い残すと、皇太子妃は裾を翻して、ジン(魔人)に背を向ける。侍従長が開いた扉の手前、イオルはふと立ち止まった。昔よく聴いた、とある歌物語の冒頭を微かな声で旋律にのせてみる。
「……さあ、物語はくるくる回る
いつかの道を踏み歩く……」
「――お前……どこまで知ってる」
 歌を耳にした途端、固く表情を曇らせたシェラートを、彼女は肩越しに顧みた。紺碧の瞳をぱちりと閃かせる。
「知っているも何も、私があなたの何を知りうると言うの? きちんと顔を合わせたのは今日で二回目でしょう。こんなの、どこにでもある歌の常套句の一つじゃない」
 イオルは、ことりと首を傾げた。
「シェラート? あなたは何に気付いたの?」
 問い掛けて、彼女は肩を竦める。後はもう振り返ることもせず、義妹の寝室から出て行った。
 
 
 ファッテが立ち去る際、扉が完全に閉まるのを見届けてから、シェラートは、すぐに寝台の枕元へと膝をついた。
 これ以上、血を流さないようにと、魔法を使って傷口を閉じながら、フィシュアに突き刺さったままのガラス片を慎重に取り抜きにかかる。長年培ったもののせいか、常人より血液は見慣れているはずなのだが、鮮やかすぎる色と匂いに途中酔いそうになった。
 やっとのことで、消すことの叶った傷と痣に、彼は深い安堵の息を漏らす。
 けれども、透き通る小瓶のガラス片には、未だぬらぬらと赤い血が纏わりついていた。無残に切り刻まれた事実は消せるはずもない。シェラートは、抜き取った破片を青紫の香油瓶の残骸が散乱したままになっている場所へと投げ入れた。
途端、粉砕されていたガラス瓶が瞬く間に形成され、元の姿を取り戻す。中には、深海の如き濃い色をした香油が何事もなかったかのように収まっていた。
 彼は続けて、寝台にまで染み渡ってしまった血を拭った。手でフィシュアの首元をさらって生ぬるい血を消してゆく。
 部屋に充満していた香油の甘ったるさと、錆び臭い血の臭気もかき消えた。
 後には、夜の静寂だけが部屋に残される。
 シェラートは長い溜息と共に、寝台のへりに一度顔を突っ伏してから、そろそろと顔を上げた。寝入っているフィシュアに目をやる。
 柔らかな息づかいが、やけに大きく聞こえた。胸は規則正しく上下し、脈はとくとくと時を刻む。
 だが、それらが途切れようとしていたことを、眠り続けていなければならなかった彼女は知らないのだ。
「悪かったな」と、シェラートはフィシュアに謝罪を述べた。返る言葉はないが、絶え間なく続く呼吸音だけでも充分だった。
 淡い光を受けた髪色は、いつかの夜と同じように琥珀色に輝きを広げる。しかし、今夜はあの夜と違い、輝きに僅かな鈍りがあった。そのことに気付いたシェラートは、フィシュアの髪を梳きやりながら、熱で縮こまってしまった毛先をこともなげに治しだした。
「初めっから、な……」
 零れ落ちた呟きは、誰に宛てられたものでもなかった。閉じられた部屋の中では聞いた者も彼一人である。
 梳き整えた髪を敷布の上に綺麗に流して、シェラートは髪から手を離した。その手を今度はフィシュアの額にあてがう。
「朝になったら」
 ジン(魔人)はフィシュアの耳元で囁く。魔力を込めた言葉は、彼女の眠りの終焉を告げた。
 
立ち上がり、フィシュアの元から離れたシェラートは、床に転がったままの香油瓶を拾い上げた。いくらか小瓶を動かしてみながら、もったりと揺れる液体を眺める。やはり、夜の海によく似ているように思えた。しかし、海のように荒い波が立つことはない。凪いだ海が広がるだけだった。
月が照り続ける窓の外では、今夜もナディール(季節風)が吹く。その事実は変わらないのに、窓の内にいる者には風が微塵も感じられなかった。
ガラス板一枚。たったそれだけの透明の板が、難もなく内と外を遮断していた。香油瓶に関してもきっと同じことが言えるのだろう。
シェラートは青紫の香油瓶を鏡台の上に立ち並ぶ列に戻した。そして、彼は彼女の部屋を後にしたのだ。
 
 
 
 
 
 

(c)aruhi 2009