雨待ちの宿り

 

「トゥーアナ」
「――ん………」
「トゥーアナ、トゥーアナ」
「…………は、い」
 まどろみの中から呼び起された。やっとのことで出せた声はかすれてしまったけれど、答えられたことにほっとする。
 何度も何度も名前を呼んでくれていることには、気付いていた。だけど、聞いていたのは夢の中からで、意志に反して重い瞼からなかなか抜け出すことは難しかった。
 まだぼんやりとする頭のまま何とか上体を持ち上げる。窓から見る空はまだ薄暗い。星がぽつぽつと瞬き、朝まではまだ少し時間があるように思う。
 どうしたのだろう、と首を傾げた。こんな時間に起こされることなど初めてのことだったから。
「ガーレリデス様?」
 隣にいるはずの彼を見て、目を瞬かせる。
「……寝ている、のですか?」
 どこから見てもそのように見える。彼の瞼は閉じられていた。試しに、ガーレリデス様の顔の上で手を振ってみるが、反応がない。
「ガーレリデス様……?」
 ならば、さっきのは寝言だったのだろうか。それとも、ただの夢だったのだろうか。やけにはっきりと聞こえた気がしたのは、あの呼び声自体が夢の中から聞こえてくるものだったからなのかもしれない。
そう考えると、しっくりと納得できるものがあった。
 きっとそうなのだろう、と少しだけ残念に思った。
 彼を起こさぬようにと、できるだけ静かに体を横たえる。横顔をぼんやりと眺めながら、けれどもとろりとろりと再び瞼が下がってくるのに逆らえはしなかった。もっと見ていたいと何度も望むのに、襲いくる睡魔にはいつも勝てない。
 だから、夢なのかと思った。「まだ眠るつもりか」とすぐ傍から聞こえてきた声は、いつか見た夢と同じ不確かさを持っていたから。
 だけど突如、頬に走った違和感に薄く目を開けた。つねられ引っ張られた頬は、痛いというほどのものではなかったけれど、「三日も眠り続けていたのに、まだ眠るつもりなのか」と不機嫌そうな顔をこちらに向けて、確かにそう言った彼にぱちくりと目を開いてしまった。
「……起きていらっしゃったのですか? じゃあ、さっきのは……」
 さっき呼ばれたのは夢ではなかったのだろうか。彼は眠ったふりをしていたのだろうか。私の疑問を肯定するように、彼は「仕返しだ」と言った。
「仕返し?」
「トゥーアナの寝言のせいで起こされた」
「…………ね、ごとですか?」
「そう、寝言。あまりにもうるさかったから起きてみたら、眠っていたからやり返したくなった」
「……そんなにも、」
 うるさかったのだろうか? 一体何を言ってしまっていたのだろう。何かおかしなことを言っていなければいいのだが。
ガーレリデス様、と内容を問おうとしたところで、彼はなぜか苦笑した。頬から離れた彼の手が、腕を伝って、まるで手繰るように手を取られる。その感触に、体が震えた。
「体調は?」
「――特に問題はないです」
「嘘はよくないぞ、トゥーアナ。俺が起こしておいて、なんだがな……」
 かすかにきまり悪そうな色をその顔に映して、けれども、彼は目線をそらすことなく、むしろ探るようにこちらを見ていたから――ああ、どうして私はこんなにもたくさんのものをもらうことができるのだろうと、胸がいっぱいになる。
どうしたらいいのだろう。どうしたらもっと伝えられるだろう。
いつも模索し続けて、いつも失敗し続ける。本当はたくさんたくさん伝えたくて仕方がない。口に出したくて仕方がないのに。
「ほんの少し、ほんの少し痛むだけなのです。ご心配には及びません」
 微笑する。
「そうか」と彼は言った。また差し伸ばされたもう片方の彼の手が、後ろ髪に触れ、首に触れ、そのまま引き寄せられる。
 寄せられた優しさは、瞼の上に一つ落ちた。
 再び目を開けると、ガーレリデス様と目が合った。
「なら今日はもうこのまま起きてておいてくれないか?」
「けれども、先程目を閉じてしまったのはガーレリデス様のせいですよ?」
「それは、悪かったな」
「いいえ、分かってくださったのなら結構です」
 言うと、ガーレリデス様は笑った。
 
 とても、とても、嬉しかったのです。
 
「トゥーアナ、ちゃんとラルーを見てきたか?」
「はい、もちろんです」
「あれは小さすぎるな」
「それでも、きっとすぐに大きくなってしまうのでしょう。子どもとはそういうものなのだとよく聞くではないですか」
 
何度も何度も手を重ねては、繋ぎ合って、
――戻ってこれて良かったのだと、確かめ合う。
「夢の中からは、名を呼ぶな」
 耳に口を寄せてきた彼がささやく。
 つい、きょとんとしてしまった。離れた彼の表情には渋さが映っていたから。
「なぜですか?」
「……言わせるのか……」
「だめでしょうか?」
「別に大したことじゃない」
「それなら、おっしゃって下さい」
「……気付けなかったら、」
 そこで、彼の言葉は途切れた。「はー」と深い嘆息をして、「やっぱりやめた」と腕で目を覆う。
 合間からほんのわずかに垣間見える湖水の空は、薄暗い中でも狂おしいくらいに綺麗だった。
だから、彼が宿す色をもっとよく見たくて、私は上体を起こして彼を覗き込む。
「ならば、ガーレリデス様」
 呼ぶと、その双眸がこちらを向くことに気づいてしまったから。
 何度も何度も彼の名を呼び求める。
呆れられてもいい。きっと呼べるだけでもいいのだから。
「ああ、そうしてくれ」と彼は、私の手を引いた。誘われたふりをして身を傾ける私を、彼は小さな笑い声と共に受け入れた。
 
 そうして、私たちは知らぬ間に眠りについていた。
 あの温度の中では、目を閉じるなと言う方が無理だったのだから。
 
しとしとと雨が降り始めていたことに、気付いたのは、もう一度、目を覚ました朝のことだった。
 
 
 
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