宵の歌姫の結婚相手は貴族であった。それも、この国では「侯」に類される最上位の貴族。
 それはある種予想通りで、しかし、彼女の人と為りを知っていた都街の者にとってはいささか不可解なものでもあったのだ。 
 当代の宵の歌姫は、財産や地位の類を求める性格ではない。まして無理強いされたとしても「諾」と頷くようなやわな性格をしてはいなかった。
 ――ああ、ならば。と、歌姫がほんの幼い頃から、彼女の歌と彼女自身を愛してきた都の人々が出した結論はひとつ。
 これが、彼女自身が望んで選んだ相手なのだ。

***

 すっかり陽の落ちた空には星が砂のように広がっていた。月はない。ただ深夜にはまだ早いと、ほのかに残る明かりが空を藍色に照らしあげている。
 窓辺から、いまだにぎやかさの残る街のざわめきを見下ろしながら、フィシュアは紗が幾重にも重ねられた重たい婚礼衣装を手早く脱いだ。
 慣れた仕草でドレスからするりと抜け出し、彼女は街を歩く者たちと変わらぬ質素な衣服を頭からすっぽりとかぶる。足首まで覆い隠す長い裾の先を整えて、彼女は腰紐を結んだ。
 壁に背を預け彼女の着替えの一部始終を眺めていた男は、壁から背を離すと、椅子にかかっていた絹布を手に取り、フィシュアの頭から肩にかけてはおらせる。
五番目の姫フィストリア。服がそれで、頭がそのままではあまりにも目立ちすぎるよ」
 薄茶の髪は、色布と共に結いあげられているばかりでなく、いくつもの宝石と造花が散らばっている。ひとつひとつ取りさっていては約束の時間に遅れてしまうと踏んで、彼女はそのままで行くつもりだったのだろう。
 ちょうど人目から彼女が隠れるように絹布を整えてやって、男は妻となった女の顎線をなぞった。手を添えたまま、彼は何とはなしに彼女の唇の端へ口付ける。
「行っておいで。テトランくんだっけ。彼によろしくね」
「ええ」
 フィシュアは、表情を取り繕うことなく頷いた。
「すぐ戻るわ、ビスク」
 男は笑む。音もなく。
 それはちょうどフィシュアのよく知る者の仕草ととてもよく似通っていた。
 フィシュアが、トリアの仕事をすると言って間もなく、長姉が連れてきたのが、この男だった。
 ビスク・エイグラード。数いる「候」の中で、特徴なく埋れていたエイグラード家を、国政の一役を担うまでに引っ張り上げた男。彼自身は、現皇帝に名指しされるまでとなった。
 結局のところ、長姉の先見の明は確かだったということだろう。
 裏門から街に降りたフィシュアは、人気のない道を選んで、テトの家への道を辿る。途中、よく知る顔に幾度も出会ったが、今日ばかりは声をかけず、逆に覆い布をきつく引き寄せ、足を速めた。
「テト」
 玄関の前で落ち着きなくフィシュアの到来を待っていたテトは、声をかけられて顔をあげる。
 フィシュア、と口だけ動かして答えてみせたテトは、すばやく後ろ手に取っ手を回し、扉を開けた。
 一つきりの明かりが灯った部屋は薄暗い。机には、各地で集めてきた資料やら、走り書きのメモやらが、まとめて積み上げられていた。二日前までテト自身も家を開けていたせいか、部屋の中は埃っぽかった。
 それでも、ほっと安堵して、フィシュアは頭を覆っていた絹布を肩へと滑らせる。
 瞬間、「わっ」とテトは息を呑んだ。
「フィシュア、すごくきれい。遠目からじゃ見えなかったけど」
 フィシュアは、自分の背をとっくに追い抜いた青年を見上げて、くすくすと笑う。
「久しぶりね、テト」
「うん、久しぶり。間に合ってよかったよ」
 座って、とテトは、フィシュアに促して、自分はお茶の用意にかかる。やがて、ほこほこと湯気をはくカップを持って現れたテトは、フィシュアの前にことりとカップを置いて、フィシュアの向かいの席に座った。
 彼らは他愛もない話に花を咲かせる。
 フィシュアが旅をしていたように、民俗学者として各地を訪ね歩くようになったテトは、先日まで訪れていた村のことを話し聞かせた。テトが行ったのは、フィシュアも行ったことのある地域だ。けれども、着眼点が違うというだけで、テトが見た風景や経験は、彼女とは全く異なるものだった。その新鮮さを、テトの話を聞くたびに、フィシュアは興味深く思う。
「フィシュア。今日、シェラートが来ていたよ」
 きっとフィシュアの姿を見に。先は胸の中で呟いて、テトは話が切れた途端、脈絡もなく言った。
「そう。元気だった?」
「うん、僕から見たら何も変わらない。元気そうだった」
「そう」
 よかったわ。フィシュアは、顔を綻ばせる。
 その姿は、あまりにも美しく。今までに見たことのない彼女の表情に、テトはひそかに口を引き結んだ。
 どうして、とはテトには問えなかった。理由は少なからずテト自身も知っている。
「フィシュア。だけど、フィシュアはシェラートが好きだったんだろう?」
 微塵も疑うことなくテトはフィシュアの顔を覗きこむ。けれども、彼の問いに、フィシュアは答えはしなかった。
 ただ、ほんのりと口の端をいじわるくあげて、テトの頬に手を伸ばす。両手でテトの顔をすっぽりと包みこんで、フィシュアは彼の額に口を寄せた。
「もう行かないと」
 こつり、と額と額をあわせて、フィシュアはテトに笑いかける。
 うん、とテトは、フィシュアの手首に手を添えて首肯した。
「幸せになって」
 どちらからともなく呟かれた言葉。その重なりように、二人は一度顔を見合わせて、くすくすと笑う。
「またね」
 戸口に立ったフィシュアは、一度だけ中を振り返って扉を閉じた。
 フィシュアの姿が消える最後の瞬間。彼女の左耳で控えめに煌めいた暗緑色の石を、テトは抱えきれない苦みを持って見送ったのだ。
016.まだリボンは解かない

special thanks! もふ羊さん
2011.10.14.