……ア

 …………シアっ!


「シアっ!」

 びくん、と身体が跳ねる。
 肩を強張らせたまま、ナティシアは息をつめた。
 目の前に迫る少年の顔。きゅっと心配げに眉をひそませて、彼は自分の顔を覗き込んでいる。
「ごめん、あんまり苦しそうだったから起こした」
「あ、う」
 ナティシアは、急に今、自分がどこにいるのかが分からなくなって、呆然と幼い顔立ちの少年を見つめ返す。
 恐い夢見てたの?
 そう問われてはじめて、肩に添えられていた少年の掌の感触が現実味をおびた。
 がたがたと回る車輪と連なって馬の小気味よい蹄の音が鼓膜に響く。
 埃っぽい木の床が、身体の下で振動を伝えてきた。
 ――ああ、ここは。
 ここは。

 カルム。

 呼ぼうとした一緒に旅をしてくれている少年の名は、からからに乾いた口で発音するにはひどく難しかったらしく、何の音にもならなかった。
 ナティシアは、少年を仰ぎながら、頭の隅に残る不確かな光景を振り払う。現実は、こちらであることを確かめる。軽く巻き込んだ下唇を噛んだ。
 そうだ。これから街に商品を買いに行くのだという男の馬車に乗せてもらったのだった。
 旅慣れない二人にとって、二日もたっていないというのに疲労はもう限界で、気のいい男の言葉に甘えて、街までは空の荷台でひと眠りしていたのだと思いだした。
 カルクラムが、荷袋から水筒を取り出して差し出してくれる。水筒を受け取ろうとナティシアが身を起こすと、掛布がわりにしていた外套が背から滑り落ちた。
 筒を傾けて、喉をうるおす。ひとかけら柑橘の果物を入れている水は、ほんの少し舌先に味を残して、あとはするりと身体の中に落ちていった。途中、ぶれて口に入り損ねた水だけが零れて、襟元を濡らした。
「大丈夫?」
 カルクラムは、ナティシアの手から水筒を取り返して蓋を閉める。
 ナティシアはひとつ頷き、顔をうつむかせた。
「ゆめ、おぼえて、ない」
 たぶん、ここに来る前の夢だ。
 何度も何度も後ろばかりを振り返りながら、前に進むしかなかった。
 ただ、恐ろしくて。
 感覚だけが、まだ身体の中に残っていた。
 床についている指が震える。
「大丈夫だよ」
 つたない仕草で、カルクラムはナティシアの頭をなでる。
 ナティシアははっとして、顔をあげた。
 少し困った風の顔がそこにある。自分より二つも年下の少年の、顔。
 けれども、当たり前のように甘やかされて育った自分より、はるかに大人びたまなざしで、少年は少女の頭をなでた。
 きっと彼の姉が、この少年に同じことをしたのだろう。
 それくらい、少年の仕草は、彼の姉と変わらぬ優しさがあった。
「大丈夫」
 繰り返されたささめきに、ナティシアは頷く。頷きながら目を閉じたのだ。

029.傷跡のファスナーを

2012.01.12.