彼の妻は、月に一度、思い出したように泣く。
 しくしく泣くと言うよりも、文字通りわんわん声をあげて泣いている妻の姿に、ヒビカは生まれたばかりの頃の弟妹をいつも思い出す。
 それくらい彼の妻は子どもに勝る勢いで泣くのだ。その威勢のよさは、いっそすがすがしく彼の耳に響いた。

***

 この日も屋敷に帰宅したヒビカは、いつも出迎えに顔を出す彼女の姿が見えない時点で、そう言えば今月はまだだったと悟った。
 使用人らに教えられるまでもなく、予想通り、寝台の枕に顔をつっぷして妻はわんわん泣いていた。まるでものの一つ覚えのように泣く。その姿は、彼にはとても珍妙なものに思えた。
「エレイーケ」
 妻の傍らに座したヒビカは、結いあげられた彼女の髪をなでる。頭の頂からうなじへ。そうしてまた頭の頂に。彼は掌を習慣のように滑らせて、嗚咽を繰り返し続ける妻を慰める。「それで?」とヒビカは尋ねた。
「今日は、何をしてくれようと思ったのです?」
 途端、彼女はひくりとしゃくりあげ、なおさら枕に顔を押しつけた。ヒビカは肩を竦める。
 エレイーケ。エレイーケ。いい加減に泣きやみなさい。ヒビカは泣く妻に諭しつけて、彼女を枕ごと膝に抱き上げる。ぎゅぅと、ことさら枕を握りしめた妻の顔を、ヒビカは持ちあげた。いやいや、と頭を振ってだだをこねる彼女の頤を彼は指先で捉える。
 まったく困ったものですねと彼は眉を下げた。腫れたまぶた。赤い眦。涙がぐちゃぐちゃと流れた跡は、綺麗に化粧が施されていた分すさまじい。
 本当になんとひどい顔か。時に感情を隠す眼鏡越しからも、この時ばかりは彼の思ったことがしっかりと伝わってしまったのだろう。ひどい、と彼女はひとりごちて、頬を丸めてぶすくれた。
 つい、と妻の顎を引きあげたヒビカは、尖ったままの唇に口付ける。エレイーケは息をのみ込まれて、身を強張らせた。時折、気まぐれに与えられる息継ぎの合間に、彼女は餌を与えられた雛鳥のように喘ぐ。
 ヒビカ、ヒビカ、と抵抗も出来ずに、彼女は伸ばした手で夫の服を握りしめた。彼がそれを見逃すはずもなく。すかさず捉えた妻の掌を目の端に入れ、ようやくエレイーケを解放した。
「なるほど。今日は、庭ですね。前も失敗したのだから、任せてしまえばよいのに」
 失敗してすぐに逃げ帰って来たのだろう。彼女の掌には、とげや枝のささくれがその時のまま、肌の下に埋もれている。
「放っておくと、手が腐って落ちますよ」
「腐っ……!?」
「泣くのなら、先にそれ相応の処置はしておきなさい」
 いいですね、と念押す声に、エレイーケはしかめっ面を俯かせて答えない。
「いいですね?」
「は、はぃいい!」
 意図して低めた声音に、彼女は慌てて頷きを返した。
 しょんぼりと肩を落とすエレイーケの姿は、とても妙齢の女性とは思えない。手当の準備を頼んだヒビカは、エレイーケの傷だらけの両手を見下ろして、溜息をついた。
「花なら私が植えてあげますよ。お茶に使うのなら、干すように言っておきましょう」
「だけど、私がしたいのよ」
 エレイーケは頑固そうな意思を、その双眸に覗かせて言い募る。
「今回はうまくいくと思ったのよ。いいえ、今度こそきっと」
「あぁ、ルージャの花壇に落っこちたのですね。ルージャの匂いがします」
 花の優しさが香る髪に鼻を埋めて、ヒビカは結われていた妻の髪を解く。一筋解くごとに、花の香は部屋に豊かに広がった。言い分をあからさまに無視しされはぐらかされたエレイーケは、再びじわじわと湧きあがってきた涙を目にためて夫をなじる。
「見てなさい。今度こそうまくいくもの」
「はいはい」
 ヒビカは、再びぐずりだした妻の背を摩って、苦笑する。
 殺風景だった庭には、花が、緑が、増えた。寒々しかった屋敷の中は、品の良い調度品に彩られ、時折あちらこちらから、騒がしく声が聞こえる。使用人までもが、一緒になって賑やかに笑っている姿を目にするようになった。
 彼にとっては過分なほどにあたたかな空間。思いもよらないこの空気をつくりだしたのは、ここに来た時から、彼女が一人繰り返す失敗の数々のたまものだった。今日の彼女の失敗を、今も誰かが補って、明日には今まで見当たらなかった何かが増えていることだろう。
 帰る度に居心地がよくなっていく家。一つ一つはあまりにもささいすぎる変化で、エレイーケが失敗しない限り、彼が気付くきっかけはなかなかない。
 ヒビカは、優しく柔らかな香を纏ったエレイーケの頬にほんのりと口付ける。ぎゅぅ、とエレイーケは痛む両手で、彼の服を握りしめた。

 それは確かに、随分昔に彼が焦がれた、夢の続きによく似ていたのだ。

093.覚えていた祈り方
2011.10.18.
あまあまぺたぺたしたのが書きたかっただけ←
基本、ラピス組きょうだいは家庭に安寧を求める傾向が高い。政略婚であれ何であれ。
特に2組夫婦の相思相愛っぷりはどちらも群を抜いてたり。
「だって、ヒビカがよ。この顔でこの口で、エレイーケを可愛がってるなんて……いじめてるの間違いでしょ」
「ウィルナのやり方がえげつなかっただけでしょう。義弟の苦労がしのばれるというものです」
「いいのよ。どうしたってジブダは私を選ぶんだから」