ever after 6

 

 あの日を忘れられない。
 貴方と出会った日と同じように。
 けれど、それとは対極の記憶。
 忘れたくとも一生忘れることなど許されぬだろう。
 
 朱に塗り固められたあの日。
 次第に冷たくなってゆく血に染められたあの日のことを。
 
 
 
*****
 
 
 扉を開けた瞬間、飛び込んできたのは事切れて床に打ち伏している侍女。
 吐き気がするほどムッとする錆びた鉄のような匂い。
 
 それだけで、何が起きたのかを理解するには充分だった。
 
 この一年足らずの間に次々と“病死”してしまった兄弟姉妹に義理の母、叔父叔母、従兄弟姉妹たち。
 残されていたのは現王である父。
 それから実母と実弟、そして私。
 いつかは伸ばされるだろうと思っていた闇の手は、やはり伸ばされ、逃れることなどできなかったのだ。
 そんなこと分かりきっていたはずなのに―――――
 
 この先にあるはずの恐ろしいものを想像してカタカタと体が震え出す。
 それでも両手で体を抱きしめる様に抱え込み、震える足を何とか動かし、前へと一歩踏み出す。
 倒れている侍女の屍を越え、部屋へと続く角に差し掛かる。
「――――っ!!」
 思わず足を滑らせそうになり床を見ると、生々しいほどに鮮やかな朱の泉へと足を踏み入れていることに気付いた。
 自分の足元からゆっくりと朱の泉を作り出している根源へと目を走らせる。
 倒れているいくつもの命ある人であったモノたち。
 凄惨な景色の中心、守られるように倒れている二人。
 今朝までは笑みを浮かべていたはずの母と幼い弟は血を纏い、ただの肉の塊と化していた。
 崩れていきそうな体を押しとどめる為、壁へと手を伸ばし、呼吸を整える。
 固く目を閉じ、冷静に受け止めようとするが、そのような意志は鼻に付く醜悪な匂いによって意図も簡単にことごとく打ち砕かれた。
 
 今日は久しぶりに三人で他愛もない話をたくさんしようと、もう何週間も前から決めていたのに………
 
 眼下に広がる現実を受け止めることができず、真っ白となった頭の片隅でぼんやりとそんなことを思う。
 これが何か悪い夢のような気がするせいか涙は出てこない。
 目を覚ませば母と弟が笑いかけてくれるのではないかと。
 けれど、残酷に切り刻まれた母と弟から目を逸らそうとする自分も、震え続ける自分も確かに存在していて、それが、彼らの死をきちんと実感していることを告げる。
 
「トゥーアナ様…………」
 
 同じようにカタカタと歯を鳴らしながら後ろに控え、付いて来ていた私と同じ歳の侍女、ミエアラが怯える目でこちらを見上げてきた。
 私は浅く息をついて、努めて冷静な声を出そうとした。
 彼女も恐ろしいのだ。ここで主人である私がうろたえてはいけない。
「ミエアラ……、為すべきことは分かっておりますね?」
 ミエアラが胸のあたりで両手をぎゅっと握りしめ、震えながら頷いた。
「それなら、すぐにこのことを知らせに行きなさい。私は大丈夫です。貴女も気をしっかり持って」
「……は、はい」
 力強く首肯し、パタパタと元来た道を駆けて行く彼女の足音を聞きながら再び母と弟そしてそれを取り囲む者たちへと目を向ける。
 まだ新しいその屍たちからは未だ生暖かい血が流れ続け、徐々に朱の泉を拡大させていく。
 だが、それらを見ていることができたのは、ほんのひと時の間だけだった。
 響いていたミエアラの足跡が十数歩進んだところで止まり、短い悲鳴と共に、ドサリと何かが床に落ちた音がした。
 振り返り、飛び込んできたのは乱れて床に広がる栗色の髪を持った侍女の姿。
 次いで彼女から流れ出した朱色の液体は私の思考を停止させるには充分だった。
「ミエ……ア…ラ……?」
 壊れた人形のようにぐんにゃりと不自然に伏している彼女から答えは返ってこない。
 
 もう、堪えられない…………
 壁に寄りかかっても支えることの不可能となった体が崩れ落ち、ぬるりとした感触の中へ両手をつける。
 床にできた血だまりに視線を落としていた私の前へと鈍色に光る細く鋭い刃の切っ先が差し出された。
 切っ先、刃、柄、手、腕へと視線を順に走らせ、その剣を握る持ち主を見上げる。
 
「―――リーアン兄様…………」
 
 私を見下ろしていたのは王族暗殺の首謀者ではないかと疑われていた人物。
 だが、確たる証拠が残されない“暗殺”であったからこそ特定できなかった人物。
 その人物は私から倒れ伏している母と弟そして折り重なるように周りに倒れている血に染まった従者たちへと視線を向け、薄く笑った。
「ああ、考えていたよりも酷い有様だな」
 私の目にはその顔に浮かびあがった冷酷な微笑みが、この悪夢を引き起こした首謀者であることをはっきりと示す断定であるかのように映った。
 
 この人は一体誰なのだろう………?
 
 何度も顔を合わせ、確かに異母兄であるはずの目の前の男は別人のように見えた。
 それは、彼が嘲るような笑みを浮かべていたからでは無い。
 それは、冷たく飢えた獣のような光を灯さない瞳をしていたからでは無い。
 それは、血に塗れた衣を纏っていたからでも無い。
 
 ただ、そこには滲み出る異質さが、離れていても恐怖を抱く程の何かが彼にはあった。
 
 先程よりも震えだした体を唇を噛んで押し殺し、自分も王族であるというただそれだけの矜持を以って、かつて兄であったはずの男を睨み上げた。
「―――そう睨むな。別に直接手を下したのは私では無い。他の王族たちも少し戯れを吹き込んだら勝手に殺し合ってくれた。おかげで随分と手間が省けた。まあ、最も穢れた踊り子の血を引く王子が侮られていた結果、最後まで生き残ってしまったのは誤算だったが。それも今日、消え去った。わざわざこの私が手を下すよう命じるのさえも億劫だったが、存在されていても目障りだからな」
「……ミエアラ……私の侍女…………」
「ああ、そういえばアレに手を掛けたのは私だったか」
 ミエアラの方をちらりとも見ず、そう言い放ったリーアンに悔しさが込み上げてきた。
 男の長い二本の足の合間から見える、伏して血まみれになったミエアラ。まるで物であるかのように、ずたぼろに切られ、そのまま放置されている彼女。
 彼にとって彼女は見るに値しないそこらに落ちている塵と同じくらいの存在でしかないのだ。
 けれど確かに存在し、私に笑みを向けてくれた彼女は私にとっては大切な侍女の一人、かけがえのない存在の一人であった。
 そんな彼女を見向きもしない彼に、悔しくて涙が込み上げてくる。
 しかし、意志に反して小刻みに震え続ける体。
 
「―――――そして私」
 
 私もミエアラのように死ぬのだ。
 同い歳の侍女の姿に命を失くした自分の姿を重ねてしまう。
 きっと見向きもされず、この床に打ち伏し――――やがて朱の泉を作り出している血だまりの根源の一つとなるであろう近い未来の自分の姿。
 
 リーアンは刃を私の目の前からどけると、音も立てずに長剣を鞘へと戻した。
 ピチャリ、ピチャリと足音を鳴らしながら床に座り込んだままの私の方へとゆっくりと近づいて来る。私が手を付いている血だまりへとその足を踏み入れると、リーマスは腰を下ろし「ふっ」と笑った。
 
「そうだな、私もここに来るまではそう考えていた。
だが、お前を見て気が変わった。王をかどわかした女の血はだてではないらしい。死の間際にしても尚色褪せないか…………。
―――いや、むしろ鮮やかさを増した。この色はお前に良く似合う」
 リーアンの手が私の頬へと伸ばされ、ぬるりと滑る。
 それと同時に生暖かなものが、先刻までミエアラの体を巡っていたであろう液体が私の頬を伝った。
 
「お前の美しさは殺すには惜しい。賤しい血を引く王女、トゥーアナよ」
 
 薄ら寒さを覚えさせる灰色の瞳が上から覗きこんできたかと思うと、顎を掴まれ上を向かされた。
 それと同時に降って来た口付け。
「――――――――――ん!!」
 抗おうとしても抗うことを許さない力と重みに床へと崩れ落ちる。
 倒れる瞬間に感じた背中の痛みよりも、与えられる感じたことのない感覚にぞくりとした冷たさを背に感じた。
「――やあっ…………」
 訳が分からず恐怖するのに口から出るのは熱い息と自分のものとは思えぬ悲鳴だった。
 慌てて口を抑えようと伸ばした両手は呆気ないほど簡単に遮断され、温かさを残した血の浸る固い床へと固定された。
 同じく、熱い吐息が自分の肌にかかり、次いで、柔らかいものが胸をなぞるように刺激し始める。
 それがようやく終わったかと思うとツキンとした痛みと共に今度は噛まれ始めたのがわかった。
「……っつ……ふあっ、――――ああぁっ!」
 ビクリと体が波打つ。恐怖から来る震えとは全く種を異にした震え。
 堪え切れないゾワリとした感覚に肌が泡立った。今までとは違った頭が真っ白になってしまったかのような感覚に、自分の体が自分の物では無いような錯覚さえ覚えた。そして、できればそうであって欲しいとも。
 そう思ってることに気付かれたのかリーアンは何度もそこに刺激を与え続けた。
 それを避けようと身じろぐが押さえつけられている体は一向に動く気配を見せない。
 与えられ続ける気持ちの悪さに吐きそうだった。
「――――やめ……て……、や、あぁっ……めて……くださ……い……」
 まるで虫の声のようなか細く弱々しい懇願に顔をあげてこちらを向いたリーアンの顔が涙のせいで酷く揺らめいていた。
 それでも、彼が小さく笑ったのが分かった。
 背筋が凍りつくような冷たさと嘲りを含んだ笑い。
 暗雲のような灰色の双眸が私を見下ろし、リーアンは口元に笑みを刻んだまま言った。
 
「―――トゥーアナ、お前に選択肢を与えてやろうか?」
 
 リーアンは試すようにそう言い放つと床に留めていた私の右手を取り、指を舐めるように口付けた。
「王族は誰も己の指に毒を宿しているだろう?」
 それは己の矜持を保つためのもの。
 敵の手に落ちることなく誇りを持って死という仇を成す為の道具。
 指輪に仕込まれ、王族が常に身につけている毒――――それは自害を指していた。
「私はお前を殺さない。選択させてやろう。王族としての誇りを選ぶか、このまま私の寵妃となるか。
 ―――――選ぶのはお前だ」
 解放された右手を自分の方へと近づける。
 自分でも何とも惨めだと感じるほど、近づいてくる自分の手は震えていた。
 やはり震えているもう一方の手で指輪に付いたひときわ大きな宝石を滑らせ、さらに自分の方へと近づける。
 
 毒を口へと近づける最期の瞬間、けれど、頭の中でチカと光るものがあった。
 
 私はギュッと目を瞑り、震える両手を合わせて握りしめた。
 
「生に執着するか」
 
 真上から降って来た、嘲るような、しかし、楽しむかのように悦を含んだ言葉。
 それと同時に逃れようのない感覚が否応なしに戻って来て、再び悲鳴を上げる。
 
 
 何とか、意識を紛らわせようと逸らした瞳に映ったのは無数の肉の塊。
 生暖かな血が次第に冷たくなっていくのを確かに肌に感じながら、私は朱の泉の中へと深く墜ちていったのだった。
 
 
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(c)aruhi 2008