「貴女も抜け出してきたのか?」
きっと貴方は覚えてはいないのでしょうけど、この言葉が全ての始まりでした。
*****
ガラス越しに見えるのは煌びやかな世界。
天井からホールを照らすのはいくつもの明かりが灯されたシャンデリア。
光の中で多くの男女が共に手を取り優雅に踊る。
磨き上げられた純白の床に、その上でくるくると舞う貴女(きじょ)たちのドレスの色が映り、まるでいつか見た万華鏡のようだった。
光の届かない庭の片隅、私は一人佇みガラスの向こうの輝く世界をぼんやりと眺めていた。
隅々まで手入れの行き届いた庭へ目を向ける者などいない。薄桃の花が闇の中、部屋から漏れる明かりを受けて、ぼんやりと浮かび上がっていた。
十三歳を迎えた私はその日初めて他国の舞踏会というものへと訪れた。
ケーアンリーブ王国とは逆に位置する隣国、シトロナーデで開催される舞踏会は国王の生誕を祝うものであり、各国から多くの要人貴族が招待され大規模に執り行われる。年に一度開かれるシトロナーデ王国の繁栄を祝うその祝祭は、各国との友好を確かめ合う場所としても、政治的な駆け引きを行う場所としても、そして、王族、貴族の子女たちの出会いと顔合わせの場としても重要な位置を占めていた。
私は義姉達からその舞踏会がどれほど楽しく豪華であるかをことあるごとに聞かされていた。
ルメンディアで開かれる貴族内だけの舞踏会など比では無いとか、あの調度品は誰だれの作品で木目細かい装飾が美しいとか、出される料理はルメンディアでは絶対に見られないものだがこれはこれでとても美味しいのだとか、どこどこの子息は容姿性格共に麗しく素敵だとか、頬を紅潮させながら興奮気味に語る義姉達の話に憧れは募る一方だった。
早く私も行ってみたいと、それだけを願い、嬉々として隣国へと出かけて行く義兄義姉達を毎年羨望の眼差しで見送った。
だから十三を迎えた年、父王からシトロナーデの舞踏会へと参加するよう言われた時は飛び上るほど嬉しかった。舞踏会はまだ何カ月も先だというのに、義姉達と舞踏会のドレスや装飾品をどれにするかと盛り上がり、こんな時はどう対応すればいいのだ、など他愛もない話を何度も繰り返しながら私はまだ見ぬ舞踏会に胸を高鳴らせていたのだ。
今思えば私が嬉々として隣国の舞踏会に行く旨を伝えた時に母が浮かべた憂いが全てを表していたのだと分かる。
初めは私に付いて色々と説明してくれていた義姉達は、きっちりとした夜会用の上品な服を着込んだ男性たちに次々と声を掛けられ、あっと言う間に居なくなってしまった。一人ポツンと残された私は、それでも、壁に寄りかかり楽しそうに舞う義姉達を見ていたが、すぐに居心地が悪くなって逃れる様に外の空気を求めて庭へと降り立ったのだ。
良く考えれば、初めから分かっていただろうことだ。ルメンディアの王女と言っても、私は末の姫である。義姉達と比べたら政治的な価値の小さい、しかも、まだ歳端のいかない小娘である。誰も気に留めるはずも無かった。
それでも、全く声を掛けられなかったわけでは無い。けれど、それは吟味するかのような不快な視線だった。彼らはただ、平民よりも下の身分であった女の血を引く王女へ嘲りと興味を抱いていただけなのだ。毛ほども隠そうとしない皮肉と嘲笑を向けられ、王を落とした踊り子の娘とはどんなものかという興味から踊りの相手を申し込まれた。
私は自分に向けられるそれらの視線が耐え切れなかったのだ。自意識過剰だと言われるかもしれない。だけど、その場に居る皆、全ての視線が自分に向けられているような気がして、息を吸うことさえままならず苦しかった。
だから、私は逃げる様にその場を後にしたのだ。
柔らかな草を踏みしめながら私はようやく息の仕方を思い出したかのように安堵の溜息を洩らした。
暗い地面の上、舞い踊る影を見つめながら、やはり私など居なくとも何ら問題はないのだと、嘲りと興味の対象も居なくなれば忘れられてしまう程度のものなのだと、自分から逃げ出して来たのにも拘らず、どこか自嘲めいたことを思う。
先程まで居た光の方へと視線を上げ、相変わらずくるくると舞い続ける人々を見ているとなんだか目頭が熱くなってきて、慌てて溢れだしそうな滴を拭った。なんとか抑えようと何度も深呼吸をし、我慢したら涙が止まった代わりに今度は鼻の奥がツンとした。
現実の世界は幼すぎた私には厳しかった。甘く考えすぎていた。
けれど、ずっと楽しみにしてきたのだ。義姉達の話を聞いてずっと夢に思い描いてきたのだ。
だからなのだろう。なぜだか、無性に悲しくて、それでも光り輝く世界から目を離すことはできなかった。
もう、何十分位そうしていたのだろう。
知らず、ブルリと震えた体に自分が長い間そこに留まっていたことに気付いた。昼は夏の名残りが顔を出すとはいえ、もう秋である。夜風はそれなりに冷たかった。
カチャリという音の次に庭へと続くガラス扉が開いたのは、私がすっかり冷えてしまった体にそろそろ部屋の中へ戻ろうとしていた時だった。
高く、黒い人影。それでも分かる、鍛え抜かれたがっしりとした体躯。
影になっていて顔は良く見えなかったが向けられた澄んだ空色の双眸に私は息を呑んだ。
「ああ……、先客がいたのか」
ゆっくりと近づいてくるその人影が、漏れ出る光に照らされる。
光に照らされ黄金に輝く金茶の髪。
すっきりとした鼻梁。
先程よりも透明な光を増した青の瞳は湖水に映された空を思わせた。
―――ケーアンリーブ王太子、ガーレリデス殿下!!
義姉達の話にもよく出て来ていて、ここへ着いた途端あの方だと秘かに教えてもらった殿方達の中に含まれていた人物の一人。予想だにしていなかった事態に声を出すこともできず、目の前に突然現れた人物の顔を驚きと呆然から不敬にもまじまじと見上げてしまった。
口元に笑みが刻まれ、ガーレリデス様が口を開いた。
「貴女も抜け出してきたのか?」
自分に掛けられた言葉に我を取り戻した私は慌てて正式な礼を取った。
「―――失礼いたしました。ルメンディア王国第七王女トゥーアナと申します」
深々と頭を下げたままの私に彼は「顔を上げて下さい」と言いながら、くつくつと笑った。
またもや仕出かしてしまったらしい失態に急いで顔を上げる。みるみるうちに頬に朱が散って行くのが自分でも分かった。ここが薄暗くて本当に良かったとほっとする。
「ケーアンリーブ王国のガーレリデスだ」
「は、はい」
「すこし疲れたので夜風に当たりに来た。悪いが、俺もここに居させて貰っていいか?」
「は、はい」
それしか返事が出来ず硬直している私に向かって「そう緊張するな」と笑いながら彼は近くのベンチへと腰を下ろした。
ゆったりとベンチの背に体を預け、「ふぅー」と息をついた彼をちらと見ながら本当疲れていらっしゃるのだなぁと感じた。それはそうだろう。王太子といえば舞踏会も仕事の場。遊び気分でやって来た私とは根本的に違うのだ。それに、義姉達が騒いでいたほどだ。令嬢達の相手も半端無いに違いない。そんな中に居れば気疲れもするだろうし、少しは休憩したくもなるだろう。たった短時間の間でさえ、私は耐えられずここへと逃げだしてきたのだ。彼の気苦労は私には想像もつかないほど大きいのだろう。
そう考え、私は再び視線を部屋の中へと戻した。これ以上疲れている彼に気遣いを掛けさせてはいけないと思ったのだ。本当は室内に戻った方が彼の為には良いはずだと思ったけれど、先程まで戻ろうと思っていた意志はなぜか疾うに消え去ってしまい何とはなしにただ立ち尽くして中の様子を眺めていた。
とにかく気を遣わせてはいけないとそれだけは思っていたから、口だけは一切開かないようにしていた。
だけど、それが却って彼の気を遣わせてしまったらしい。いつの間にか再び立ち並んでいた彼が声を掛けてきた。
「何をそんなに眺めているんだ?」
「え? えっと……あの……」
しどろもどろになりながら何と答えれば良いのかと彼を見上げる。整った横顔はついさっきまで私が眺めていた部屋の中へと向けられていた。
「踊りたいのか?」
「―――え?」
思わず聞き返してしまったが、私の中で何かがかちりと収まった。
そうなのかもしれない。
なんとなく、けれど、ずっと見つめてしまっていたのは光の下で踊る人々が羨ましかったからなのかもしれない。私もあんな風に踊れたら、と無意識に願っていたのだろう。だからこそ諦めきれずあんなにも見つめ続けていたのだ。
今しがた言われた言葉に納得していると、彼はこちらを見ながら苦笑を洩らした。
「貴女ほどに美しい姫なら、放って置く者などいなかっただろうに、トゥーアナ姫」
思わずカアッと熱くなった頬が悟られはしなかっただろうか? いや、やはり悟られてはいただろう。私はかなり動揺していたのだから。
それが世辞であることは彼の目を見れば分かったのだ。
なぜなら、私を見る澄み渡った空のような瞳はどこか子供を見るような穏やかで優しいものだったから。義姉達の情報によると彼は十八歳のはずだ。私とは五つも歳が離れている。彼にとって私が子供にしか見えないのも仕方のないことだろう。
だけど、嬉しかった。彼の言葉にも、彼の瞳にも、私が忌んでいた二つの要素は含まれていなかったから。
差し出された手に驚き、その大きな手と彼を交互に見上げる。明らかに戸惑い始めた私に彼は少し可笑しそうに笑いながら口を開いた。
「一緒に踊るか?」
めい一杯目を見開いてしまった私に彼は「嫌ならいいが」と苦笑した。
嫌な筈が無い。ぶんぶんと勢いよく首を振った私にまた小さく笑い声を洩らしながら彼が私の手を掴んだ。腰に手が回され、グイッと引き寄せられる。さっきよりも間近に迫った端正な顔にどぎまぎしながら見上げると彼が少し眉根を寄せていた。
また何かやってしまったのだろうか。
「手」
「は、はい……?」
「冷たい。ずっとここに居たのか?」
「え、あ、はい……」
彼が大きな溜息をつく。「もう少し早く気付いてやれば良かったな」と。
申し訳なさそうな顔をする彼に向かって私は小さく首を振った。
「でも……。でも、今は温かいです」
彼は一瞬呆気にとられたような顔をして、私の腰に回していた手を離し、宙を彷徨っていたもう片方の私の手を掴むと自分の肩にのせた。
背の低い私には少し高すぎる位置。けれど、決して苦痛では無かった。
再び腰に回された手に確かな温かさを感じる。
「踊るか」
「はい」
ゆっくりと踏み出されたステップ。
光と共に部屋から漏れる楽曲の音に合わせながら舞う。
中に居る皆と同じようにくるくると。
楽しい!
初めは緊張していたはずなのに、いつの間にかそれは消え去り、楽しさへと変換していた。義姉達の言っていた意味がようやく分かった気がする。その楽しさに身をまかせて舞い踊り続けた。
ふわりと抱え上げられ、また地に足を付く。そして、またふわりと。
一切無駄の無い、その動きと浮遊感はまるで背に羽が生えて本当に飛んでいるかのようで私は声を立てて笑ったのだ。
*****
それから私がケーアンリーブの城に来るまで、ガーレリデス様と話を交えることができたのは数える程しか無い。
それでも私は今でも鮮明に思い出すことができるのだ。
ガラスの向こうに見えた輝かしい世界を。
漏れ入る光だけの薄暗い庭の様子を。
その片隅でぼんやりと光を受けながら揺れていた薄桃の花を。
微かに聞こえていた音楽さえも一音一音鮮やかに。
(c)aruhi 2008