遠くで声が聞こえる。
トゥーアナ、トゥーアナ、と。
「母様?」
声に向かって、そう呼び掛けると、母様がこちらを見て微笑む。その腕にはしっかりと弟が抱かれ、小さな手が何度も手招きをしていた。
「ああ、やっぱり。あれは悪い夢だったのね」
ホッとして思わず目を細めて笑みを返す。
けれど、再び開いた目に映ったのは赤黒く染まった不気味な世界だった。
「―――良かった……。トゥーアナ様、ご無事だったのですね」
ぼんやりとした世界が徐々に開かれ、涙ぐんだメレディが目に入った。
それと同時に襲ってきた鈍い痛みと体に纏わりつくべっとりとした粘り。
立ち上がろうとしたが、上手く体に力が入らず首だけを動かす。
ああ、さっきの色はこれだったのか……
鮮やかな朱の泉は今や赤黒く、打ち伏した肉塊は昨夜よりも異様さを増していた。
もう、そこには人間らしさの欠片もない。
恐怖に見開かれた自分と同じ色の瞳が朝日に照らされてキラリと光った。
思わず見とれてしまいそうな程美しいその輝きは透明なガラス玉そのものだった。
周囲を覆い尽くす赤く黒い色の中、メレディが私に掛けてくれたらしい布の白さが却って目に痛い。
「トゥーアナ様、お怪我の手当てを……」
「―――こ……れは、私の血……じゃ、ない」
震える自分の声と辺りの惨状に昨夜の出来事が全て蘇った。
―――気持ち悪い。
「――――っ!」
「トゥーアナ様!!」
ゴボッという不快な音と共に全てが逆流する。
まるで自分の中の汚れた部分を吐き出すかのように。
それなのに、いくら吐き出しても吐き気は治まらず、吐き出せば吐きだす程に穢れは私の中に落ちて定着していくようだった。
「――――う、はあっ、はあっ……ぅうっ……」
何度も何度も同じ優しい手つきで背を擦ってくれるメレディが気遣わしげに私を見ているのが分かる。
けれど、滲む私の視界に映るのは赤黒く染まった不気味な色だけだった。
王の御前に立ち、膝をつき、頭を垂れる。
葬儀の後、父に呼ばれた私は謁見の間で彼と相対した。
母と弟の葬儀はしめやかに、しかし、内々に執り行われた。
固く閉ざされた白い柩の中に眠る二人の顔は清められ、美しかった。
けれど、白い肌に纏わりつく青い冷たさが哀しかった。
こんなにあっさりと終わってしまうものかというほど、つつがなく行われた葬儀には彼らの命を奪ったリーアンの姿もあった。
自然と彼に対する怒りは湧かなかった。ただ、葬儀の場で彼が浮かべていた酷薄な笑みが頭に張り付いて離れない。
「顔を上げなさい、トゥーアナ。もっと近くに……」
「―――はい、陛下」
王座に座る父を見上げる。黒灰の瞳には疲労と悲しみが滲んでいた。
その目元には多くの皺が刻まれている。ここ数年で一気に老けこんだように見えた。
父王の元へと辿り着き、その足元へと跪くと、王は皺の多い手で私の手を優しく包み込んだまま、しっかりと私を見据えた。
「トゥーアナ……母と弟を失って辛い思いをしたな」
「―――はい。父様も」
父王が深く頷き、私の手の甲を擦った。皺がれた大きな手は優しく、張り詰めていた私の心に温かく沁み込んで思わず泣きそうになった。
「お前だけでも生きていてよかった」
「―――はい。有難うございます」
労わりを含んだその目が細まり、王が力なく微笑む。
だが、次の瞬間、細かった黒灰の双眸は何かに目を止め、驚きに見開かれていった。
「―――トゥーアナ……その首筋の痣は……?」
父はそれで全てを悟ってしまったらしい。
額に片手を当てると、苦しげに目を伏せ首を振った。
目覚めた朝、私はメレディに連れられて湯殿へと向かった。
まずは、血を洗い流しましょう、と。
立ち上る湯気の中、たっぷりと溜められた清らかな湯。
けれど、流れて行くのは朱く色のついた湯の筋ばかり。
それでも、洗い流す度に、体に纏まりついて固まっていた血は次第に姿を消していった。
同時に姿を現したのは隠しきれないほど鮮やかに刻まれた朱。
気を失う度に何度も起こされ蹂躙され続けた、あの夜の記憶の確かなる証拠。
点々と白い肌に浮かびあがったそれが、私には床に飛び散った血の飛沫(しぶき)にしか見えなかった。
「―――リーアンを王太子から外そう」
固く、だが、意志の籠った響きに私は顔を上げた。
「代わりに、トゥーアナ、お前を候補に添える。次代の王はお前に……」
「―――なりません!」
父が王であることも忘れ、私は叫んでいた。酷く礼節の欠く行為。けれども、そんなことにかまってなどいられなかった。
「私は王族としての誇りを捨てました。自分の身可愛さに自らこの身を委ねたのです。もう、私は王族ではありません」
「だが、リーアンは数多くの者を殺した。そんな輩が民を尊び、この国を治めることができるとは思えぬ」
「いいえ。王位を手に入れる為に手を染めるなど、よくあること。恐れながら、陛下にも御経験がおありのはず。少なからず、その手は闇に染まっているはずです。大差はあれど兄がしたのも同じこと。そうではありませんか?
それに兄の頭が切れるということは陛下も御存じのはず。だからこそ、今回まで王族暗殺の首謀者と囁かれようとも確たる証拠が無かったのです。兄は望んで王となるのです。王の立場となれば自ずから、その頭脳を民の為に使うことになりましょう」
「トゥーアナの言うことも最もだ。だが、あれは危うい……」
尚も頑なに決意を変えようとはしない父に私は言い募った。
「―――お願いです、父様。私は王になどなりたくないのです。私が生に縋り付いたのは王となる為ではないのです」
私は握られていた父の手を、もう片方の手を添えて逆にギュッと握りしめた。
「もう一度……もう一度、お会いしたい方がいるのです」
暗闇の中、光った一つの記憶。
三年前の、今よりも幼い日の記憶。
王である父の黒灰の瞳を正面から見据える。
「私は次期女王としてではなく、ただの娘としてもう一度あの方のお目に掛かりたいのです」
「……その方とお前は……?」
目を見張りながらも問う父の言葉の先に私は首を振った。
「いいえ。私が勝手に想っているだけのこと。彼の方は私のことなど気にも留めてすらいないでしょう。
けれども、私はそんな自分勝手な願いの為だけに誇りを捨ててしまいました。誇りを捨ててでも、もう一度お会いしたかったのです。彼の目に例え私の姿が留まることは無かったとしても。
ささやかで、そして、愚かな願いです」
「その方は……?」
「ケーアンリーブ王国のガーレリデス王太子殿下です」
私の告白に王は深く長い溜息をついた。
王座へと背を預け、下に控える私を見据える。
「トゥーアナ、自分が選んだ道がどれほど辛いものか分かって言っているのか?
その道を行けば、リーアンは捕らえられない。お前はリーアンから逃れられないぞ?」
「それでも私はただの一人の娘としてガーレリデス様と同じ場所に立つことができます。」
「相手は世継ぎの第一王子、名高い妃候補が大勢いるだろう。それに加え、お前の身。今となっては絶対に手が届くはずのない方だぞ?」
「存じております」
手の届くはずのない方。
元より王族とはいえど踊り子の娘。
穢れた身となった今では尚更。
それは充分に分かっているつもりだ。
あの時の様に、また一緒に踊りたいなどと、そんな大それたことは望みません。
私の願いはただ一つ。
例え、一時だけでも彼の傍に。同じ空間に。
例え、景色の一部でも彼の目に私が映れば。
私は、ただ遠くから眺めるだけでいいのです。
父王は再び深く息を吐き出すと、体を起し、私を見据えた。
「ならば私はお前に誓おう。
どんなに時が経とうとも、どんな手段を使ってでもお前をケーアンリーブの国王妃とする。絶対にだ。
それを成すまで私は死なない。何としてでも王位を譲り渡しはしない。お前を逃がし、幸せになったことを見届けるまでは…………。
―――だから、トゥーアナ、お前も死ぬな。必ず生きよ」
「―――はい。必ず。……有難うございます」
それは私と父だけの秘かな誓い。
この誓いが私にとって新たなる二つ目の光となり、これから進む棘(いばら)の道を照らしたのだ。
(c)aruhi 2008