ever after 9

 

まどろみの中、それでも、昨日まではなかった小鳥のさえずりに目を覚ました。狭い籠の中をあっちへこっちへと飛び移りながら、自慢の喉を震わせる小鳥。朝日に光り輝く純白の翼の先にはほんのりと紫がかっている。
歌うような美しい響きに混じって、だが、それとは対照的な押し殺した嗚咽を耳にし、私は体を起こした。
「メレディ」
 彼女は口に手を押し当てたまま、一点を見つめ涙を流していた。
「―――こんなっ……! これは、あまりにも酷い仕打ちにございます!」
 メレディの視線の先にあるのは一つの籠。何も知らずに歌う小鳥。
 それは、昨夜、この部屋を訪れたリーアンが持ってきたものだった。
 
 彼は、こう言いたかったのだろう。『お前は籠の中の小鳥だ』と。
 
 けれど、私は首を振ろう。
「いいえ、メレディ。これは私では無いわ」
 小さな檻の中、それでも楽しげにさえずる小鳥へと目を移す。
 
 白い羽に宿した紫。
 奏で続ける歌。
 
 そのどちらもが、確かに私になぞらえられたものなのだろう。
 
けれど―――
 
「この子は籠に守られている。籠の中に居れば安全よ。確かに自由に空を飛ぶことはできないけれど、何者もこの子を煩わせることはできないでしょう。
 だけど、私は違う。私の籠の扉はきっと常に開けられているの。本当は逃げることもできるのよ。だけど、私にはそれができない。ただ、開かれた籠の中、伸ばされる手に怯えるの。
 だから、この子はきっと幸せ。私は籠の中の鳥になりたかったわ」
 
夜が来るたびに震え出す自分がいる。
 今日はやって来るのだろうか、と。
 現れる彼に『生』を覚え、現れぬ彼に『死』を覚える。
 耐えがたい苦痛から何度逃れようと思ったことか。何度死を口にしようと宝石を滑らせたことか。
 けれど、結局、私は死を選べなかった。血に沈んだあの日のように。
暗闇の中でチカと光る。
 幼い日の思い出は私にとって生きる希望であった。
 しかし、同時に、その思い出は私を現実から逃れさせない残酷さをも秘めていた。
 
 それでも、やはり私は願ってしまうのだ。
 もう一度会いたい、と。
 もう一度。今度のシトロナーデの祝祭まで生きるのだと。そして、一目あの方を見ることができたなら、その後は、もう楽になっても良いのだと。
 ただの形式上の挨拶を嬉しく思う。掛けられる言葉を幸福に思う。
 もう、これで充分。充分だ。
 けれど、終わってしまえば私はまた願ってしまうのだ。
 もう一度会いたい、と。
 もう一度。今度のシトロナーデの祝祭まで生きるのだと。
 
私はそうやって時を超えて来た。
もう一度。もう一度。と何度も繰り返される願いは、私をここまで生き長らせることとなった。
 
 
 
「トゥーアナ」
 歌う私に、父王は声を掛けた。
「全ての準備は整った。今日ケーアンリーブに向けて書状を送ったのだ。明後日には正式な返事を持った早馬がこの城に帰ってくるだろう」
「本当ですか?」
 にわかに信じられない話。
 確かに父と約束はしたが、まさか本当に叶えられるなどとは思ってもみなかった。
「約束などただの気休めだと思っていたか?」
目を瞠る私に、父はいつになく穏やかな表情で微笑む。
「私はお前との約束を違えることなどはしない。
だが、トゥーアナ。ただ一つだけ叶えられぬかもしれぬことがある。私はお前をケーアンリーブ王国王妃に据えると言った。しかし、やはり難しいのだ。ケーアンリーブ王に今現在妃は居ない。しかし、それでもお前は末席の妃となるかもしれない。それでも良いからと、こちらから願い出た。とにかくお前をこの国から出すことを優先したのだ。
トゥーアナ、全ての願いを叶えられなかった父を許してくるか?」
「もちろんです、父様。あの方の元へ行けるなら私は侍女にでも、なんでも……例え何者になったとしても構いはしません。本当に有難うございます。父様には感謝しても感謝しきれません」
 父の手によって体が引き寄せられる。私も伝えきれない程の感謝を込めて抱擁を返した。
「トゥーアナ、長い間辛い思いをさせた。だが、ようやく全てが終わる。全てが終わるのだ」
「―――はい」
 
 
けれど、父の予想に反して、早馬は予定よりも一日早い、翌日に城へと辿り着いた。
 
 
「一体どういうことだ!」
 声を荒げる王に、膝をついて控える従者は苦渋の色を濃くした。
「私にも分かりませぬ。ただ、書状を持った使者の一人がケーアンリーブ国王の御前に立つなり、刃を抜き国王へと切りかかりました。すぐに取り押さえられた為ケーアンリーブ国王に実害はありませんでしたが、他の者も私以外は牢へと留め置かれております。ルメンディアにこのことを伝える為、私だけが帰されました」
「何ということを……」
 王は首を振り、頭を抱えた。
 王の書状を携えた使者。王の意向を伝える彼らは、他国では王そのものとなりうる。つまり、彼らが為す行為は全て王の意向の下となる。ケーアンリーブ国王へと剣を向けたのは、ルメンディア国王として扱われるのだ。
 
 ―――何故こんなことになってしまったのか?
皆の頭にその疑問がよぎった時、謁見の間に低く堂々とした声が響き渡った。
「どうやら戦の準備をする必要があるようですね」
 カツン、カツンと音を鳴らしながら前へと進み出た男に王は眉を寄せる。
「リーアン……まさか、お前が……?」
王の問いに、彼は口の端を上げて薄く笑った。
「何のことでしょう。全ては奇怪な使者の行動。私に関わりがあろうはずもありませぬ」
 灰の瞳を細めた王子に、そこに居た全ての者が悟ったことはきっと同じだっただろう。けれど、誰も彼の言葉を否定する為の手段を持ち合わせてなどいなかったのだ。
 静まり返った部屋の中、男の声だけが朗々と響き渡る。
「遅かれ早かれケーアンリーブ国王は兵をこちらへ差し向けるでしょう。その前に我が国も兵を挙げ、先に彼の国を叩くべきです」
 リーアンの進言に私は思わず口を開いた。
「それは、なりません! どう考えても、こちらに非があるのです。再び使者を送り、謝罪するべきでしょう」
「トゥーアナ、お前は考えが浅い。そんなことをして理不尽な要求をされたらどうするのだ? どうしようもできぬほどの損害を民に与えよ、と言うのか?」
 冷ややかな光を宿す灰の瞳と相対する。
 意に反して震え出そうとする体を両手で掻き抱き、抑えた。
「それでも……それでも、戦による損失には遠く及びません。戦によって荒らされた田畑が元に戻るのにどれほどの月日が掛ることでしょう。もとより民の命に勝る損害など存在いたしません」
「だから、勝てば良いだけのこと。我が国は肥沃で広大だ。だが、貧しい。それに比べてケーアンリーブはどうだ? 鉱山資源が豊富である為に豊かではないか。彼の国の土地が手に入れば、我が国も豊かになる。民も暮らしやすくなるだろう。それらを手に入れる為には多少の犠牲も必要だ」
「しかし―――!」
「もう良い。お前は下がれ、トゥーアナ。元より議会でお前の発言は認められてなどいないのだ」
 億劫そうに手を振るリーアンに私は唇を噛み締めた。
 彼の言う通りだ。
 王女である私に発言権など無い。私にはどうすることもできないのだ。ただ全てを託して決定を待つしかできない。
 謁見の場に立ち尽くしたままの私に、父王は一つ頷いた。
 何もできないことを歯がゆく思いながらも、私にはもはや礼をして退出する道しか残されていなかった。
 
 
議会との決定が下れば父王はすぐにでも私に結果を知らせてくれるはず。けれど、その知らせは待っていても一向に来なかった。
簡単に決められるようなことでは無い。充分に議論すべき内容だ。連日連夜議会が開かれていることは、リーアンが部屋を訪れないことでも証明されている。
 けれども、早期決断を求められるものでもあった。ケーアンリーブ王国はわざわざ我が国、ルメンディアの意向を尋ねる為に使者を一人帰してくれたのだ。返事を伸ばすことはこちらにとって得策とは言えない。
 それなのに、あれから五日経っても進展が見られない。そのことは酷く私を不安にさせた。嫌な予感ばかり頭をよぎってならない。
 
 
 ようやく事態が動いたのは使者が帰って来てから一週間経った日のことだった。
 
 
 その日、眠りについていた私はメレディの誰かを引き止める声で目を覚ました。
訪問者が誰かは分かっている。だが、もう既に夜半を回ったところ。彼がこんな時間に来るのは酷く珍しかった。
「やあ、トゥーアナ」
 カチャリという音と共に暗い部屋の中に入って来たのは、やはり予想通りの人物。闇に光る彼の瞳は黒い。
「どうされたのですか?」
「結果を教えに来てやったのだ」
 降ってくる口付けをいつものように受け入れる。その時に香った鼻に付く匂いに眉を寄せた。
胸を攻め上がってくるほどの不快な匂い。それは、かつて嗅いだ事のあるものに至極似ている。
リーアンの固い胸を押し返して、重さに倒れそうになる体を留める。
「リーアン殿下……それは……?」
「―――ああ」
 彼は不気味に笑うと小脇に抱えていた木の箱を私の膝の上に置いた。
「開けてみるといい」
木の箱は大きさに反してズシリと重い。触れた凹凸の感じから、どうやら装飾が彫られているらしい。しかし、暗闇の中では豪奢な彫刻も見えはしない。
上に乗せられているだけの軽い蓋を恐る恐る持ち上げる。
やはり、何も見えない中身に、けれど、先程よりも醜悪な匂いが増した。
 漆黒の闇の中へと手を差し入れる。手に触れたのは細く、硬い糸のようなもの。
「―――まさか……」
 まるで図ったかのように、雲が割れ、月が顔を出す。
月明かりによって徐々に照らしだされていく箱。その中には固く眼(まなこ)を閉じた青白い王の顔があった。
「……父……さ、ま……?」
 呆然と膝の上に乗った箱を見下ろす私へ、くつくつという笑いが落ちてくる。
 彼は今までになく上機嫌で、高揚していた。
 
「そうだ。私はもう殿下などでは無い。―――王だ」
 
「あか、しの……剣、は……?」
 例え彼が父王を殺したとしても証の剣が無ければ王にはなれない。だからこそ、父は最も安全のはずだったのだ。
 けれど、リーアンは薄く笑うと剣を投げた。
 ポスリという軽い音と共に寝台に載せられたのは紛れもなく王家に伝わる証の剣。数々の宝石を模した剣は月光の下、妖しく光る。 
 証の剣が隠されていた場所は父と私しか知らない。しかも、彼が父から正式に剣を譲り受けたはずが無い。それなのに目の前に立つ男がこの剣を手にしているということは――――――
辿り着いた一つの答えに、私は愕然として男を見上げた。
「は、かを……私の母の墓を暴いたのですか?」
 リーアンは、ふっと口の端を上げて冷笑する。
「本当に馬鹿な男だった。せめて正妃の墓に隠しておけば良かったものを」
「何ということを―――!」
 頬から首へと触れる男の手を過去とは比べ物にならない程に嫌悪する。
 首筋を何度もなぞる手つきだけはゆっくりと優しい。けれど一度、彼がその手に力を込めれば私の首など簡単に折れてしまうのだろう。
「トゥーアナ。良いことを教えてやろうか?」
真冬の雲と同色の瞳の持ち主は穏やかに微笑む。
「もうすぐお前の愛しい男に会えるぞ? ずっと手元に置いておくといい」
 不可解な言葉に冷や汗が背を伝う。
「今日、ケーアンリーブへ返答を送った。早朝には彼の王の元に届くだろう」
 男が嗤う。まるで私の反応を見て楽しむかのように。
「私が知らないと思っていたか? 知っていたさ、初めからな。だが、トゥーアナ。戦は始まる。もうお前には止められない。
だから代わりにお前に捧げようじゃないか。勝利の暁に、ケーアンリーブ国王の首を、な」
 
リーアンは酷く面倒臭そうに父王の首を私の膝の上から床へとどかした。
のしかかってくる男の重みに今度は逆らうことなどできず、寝台の中へと体を埋める。
父の顔は見えない。ただ、白髪の交じった髪だけが箱の中から覗いた。
ガーレリデス様もあのようになる? 小さな箱に収められて彼の方が私の前に差し出される? 
「たった、それだけの為に……?」
 たったそれだけの為に、この男は戦をすると言うの? 多くの民を犠牲にし、田畑を荒らして、隣国を滅ぼすと言うの? 全ては私の為に――――――?
 私は自分の手を一度自分の顔へと覆いかぶせた。次いで、己の腹を這う男の髪に手を伸ばす。不意に髪を撫でられた男は顔を上げ、意外そうにこちらを見据えた。
「どうした、トゥーアナ。まさか、嬉しかったのか? 愛しき国王が手に入ると聞いて?」
「ええ、陛下」
 彼の少し硬い髪を撫で続けながら微笑みを返す。新たなる王は、さも面白いことを聞いた、と言わんばかりに声を立てて笑い始めた。
「トゥーアナ、お前は面白い。あの日の判断は間違っていなかったようだ」
 瞼に落とされた口付けを、瞳を閉じて受け取る。
「そうだ、トゥーアナ。お前をルメンディアとケーアンリーブの王妃としてやろう。ちょうど、他の二人には飽いたところだったのだ」
 貰った言葉に笑みを浮かべる。
「それでは陛下……私からも祝いの口付けを」
 髪へと伸ばしていた手を、男の頭ごと抱え込むようにして引き寄せ、自分の唇を彼のそれに乗せた。触れた瞬間割り込んできた舌に自分の舌を絡め捕られながら、自らも男の口内へと侵入する。
「―――んっ……」
 歯列をなぞりながらも私の肌を弄り始めた男の手に、思わず顔を離しそうになる。けれど、私が男の頭を抱えているのと同じように後ろから押さえつけられていた私の頭は逃れようにも逃れられるはずが無かった。
 
 まるで蛇のように蠢いていた舌は、けれど、奇妙な音と共に私の中から離れた。
「―――ぐっ、ぅぐぉ……ごほっ、ごほっ……」
 激しく咳きこみながら睨み上げてくる灰の双眸を、頬に着いた唾液を拭きとりながら見下ろす。
「お前……何を呑ませた……!?」
 問いながらも男は己の首を両手で押さえ、苦痛に顔を歪め始めた。絶叫することさえも許されない程の悶絶は、けれど、すぐに終わりを告げる。
 あれほど喘ぎ苦しんでいたのがまるで嘘のように男は呆気なく呼吸を止めた。
 目を見開いたまま寝台に横たわる男の顔には苦しみと憎しみが映る。
 魂の無い肉塊と化した男を静かに見下ろす。
 そこには、一滴の悲しみも無ければ安堵も無い。
 ただ無感動だけが横たわっていた。
「愚かな王よ……何故貴方は民の為ではなく、陳腐な理由で動いてしまったのですか?」
 喉が焼けるように熱い。少量とはいえ、私も毒を口にしたのだ。
 震え出した体を何とか立たせ、寝台の横にある小さな机へと向かう。右上の一番奥の引き出しから紙に包まれた解毒の錠を取り出し口に含み、息をついた。
 
 
 雫が一筋、頬を伝う。
「メレディ」
 いつの間にか入って来た老侍女に目を向ける。驚愕している彼女はそれでもしっかりと私の方を見据えて立っていた。
「手伝ってくれますか?」
 メレディは深く頷き、裾を両手で摘まむと腰を折った。
「私に出来ることならなんなりと―――我が君」
 寝台に載せられたままになっていた王継承の証へと手を伸ばす。豪奢な鞘から刀身を抜き取ると、鈍く光るその身が露わになった。
 
 そして私も愚かな王女。彼と同じ道を行く。
 
 
 陳腐な理由で私もまた民を裏切ったのだ。
 
 
 
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(c)aruhi 2008