傲慢な本音を隠すわたしを、あなたが嫌悪しませんように

 

 初めはただ、一目見るだけで良いと思っていたのです。
 それなのに、牢に貴方が来てくれたから、触れたいと愚かにも願ってしまいました。
 
 届くことは無いと思っていた人。
 
 触れることをあの日、貴方は許してくれたから。
 酷く似合わない手。穢れ、血に濡れている手。
 貴方が知らないことをいいことに、私は許されるがままに貴方に触れました。
 触れた頬は温かく。確かに貴方がここに存在するのだと、これは夢ではないのだと。
 
あの日、もう何も望まないと貴方に告げたのに、再び許された優しさに私は目を瞑りました。
 
 
「ラルー、ラルー、ラルー」
「―――トゥーアナ。“ラルー”と連呼しても浮かばないものは浮かばないだろう」
 彼が苦笑する。
 彼の手元にあるのは真っ白な紙。名前の候補が書かれるであろう紙を前に、彼は手に持っていたペンをインク壺に戻した。
「大体まだ子が生まれるまで一か月あるだろう。まだ時間はある。焦るな」
「そう言って、もう六か月も過ぎてしまったのですよ? このままでは間に合わないような気がします」
 ガーレリデス様が肩を竦めるその横で、この国の宰相であるバロフは眉を寄せた。
「そんなことよりも……いい加減お座りになって下さい、トゥーアナ様。全く貴女を見ていると危なっかしくて仕方がない」
 侍従に頼むでもなく、バロフは自ら王の机の前に椅子を運んで来た。
「バロフ。けれど、貴方は私がここに来るのを怒っていたではありませんか。ガーレリデス様の仕事を邪魔するなと。だから、休憩の時間を見計らって来たのです。でも、それももう終わりでしょう? すぐに退出しますよ」
 だから椅子は必要ない、とやんわりと断りを入れる。
 だけど、バロフは大げさに溜息をついた。本当に、こちらが思わず苦笑してしまうほど大きな溜息を。
「もういいんですよ。貴女が居ても居なくても陛下の仕事は全くと言って良い程、進まないのですから。トゥーアナ様と同じでずっとお子様の名前を考えておられます。執務中にも関わらず、です」
 宰相に睨まれた王は苦い笑みを刻みながらバツが悪そうに視線をそらした。
「そうなのですか……?」
「そうなのですよ」
 バロフが私の手を取り、椅子の方へと促す。その歩みは酷くゆっくりで、労わってくれているのが不機嫌な顔をしていても伝わってくるから、私は思わず笑ってしまった。
「なのでどうせなら御二人で心行くまでお考え下さい」
 そう言って彼は私の肩に上着を掛けた。
「それは俺のなのだが……」
「妊婦の体を冷やす訳にはいかないでしょう」
「なんだかんだ言ってお前は人がいいからな」と、王が笑う。
 
「有難うございます」
 
そう礼を返すと、バロフはそっぽを向いた。
「あれは照れているのだ。分かりにくいがな」と苦笑して私に耳打つガーレリデス様を、バロフはもう一度睨んだ。
 盆に三人分の茶を載せて運んで来たメレディもクスクスと笑う。
「本当にバロフ様は柔らかくなりましたね」
 かつてはあんなに目の敵にしていたのに、と続くのであろうメレディの分かりやすい皮肉に、バロフは何も言わずにティーカップを一つ手にして茶をすすった。
「大体、“ラルー”というのはもともと男女どちらに付けられる名なのですか?」
 ルメンディアで“陽の光”や“繁栄”を意味するその名前。
「“ラルー”は男女どちらにもよく付けられる名なのですよ」
 メレディの答えに、バロフは、ふむと頷くと私達の方を向いた。
「それで、ガーレリデス様とトゥーアナ様は男女どちらをお望みなのですか?」
「別にどちらでも。無事に生まれてくるのならそれで構わないだろう」
「私もどちらでもよろしいのです。幸せなことには変わりはないのですから」
 なぜならそれは与えられるはずの無かった幸福だったのだから。この奇跡こそが奇跡なのだ。
「バロフ、お前ならどちらがいいか?」
「世継ぎのことを考えるなら男児でしょう。何故あなた方がそう答えなかったのか甚だ疑問です」
 王の問いに即答した男はその口に苦笑を刻む。
「ですが、そのことを考えなくてもよろしいのならば、私もどちらでもよろしいと思いますよ。どちらにしろ、大切に慈しみ、守るべき存在であるのに変わりはないのですから」
 バロフの言葉に、ガーレリデス様と私は互いに顔を見合わせる。
「有難う」
 コホンと軽く咳払いをしたバロフは真白な紙に視線を落とした。
「…………ラルシュベルグとラリアスティナとか……」
 それは本当に小さな、ともすれば独り言のような呟きだった。
 だが、聞こえないと言うこともないほどの声。
 彼もまた名を考えてくれていたのだと、嬉しくて笑みが零れる。
「うん。悪くはないな」
 ペンをインク壺から取り出したガーレリデス様は何も書かれていなかった紙に二つの名を刻む。
「よ、ろしいのですか……?」
 酷く驚いた顔をしているバロフを見て、私達はまた顔を見合わせた。
「良い名前だと思いますよ」
「まだ、候補だ。バロフの案を完全に通したわけではない」
 
 けれど、結局その後に続く名は上がらなかった。
 生まれた息子は必然的にラルシュベルグと名付けられる。
 とても良い名。
 皆が考え、与えてくれた優しい名。
 
 バロフは小さな命を恐る恐る抱きかかえる。
「トゥーアナ様……」
 非難めいた声と視線を私に向けて。
「バロフ、堂々として下さい。貴方はラルシュベルグの名付けの親なのですから」
 バロフの腕に不安定さは微塵もない。しっかりと、そして確かにバロフによって守られている命。
 きゅっと小さな手が彼の服を握る。その瞬間、彼の顔に現れた表情は恐らくなかなか見られるものではないと私はもう知っている。
 
「バロフの方に懐かれると困るな……」
 隣から聞こえてきた懸念の声に、ガーレリデス様を見上げる。
「そうですね、ラルーはあの手を離さないかもしれません」
 私が温かな手を離したくはないと願っているように。
「トゥーアナ……笑い事じゃないぞ?」
 クスクスと笑い続ける私に向かって、彼は肩を竦める。
 
それでも、貴方はつないだ手を握り返してくれたから。
 
私は、また、願ってしまうのです。
 与えられた暖かな時間が、あともう少し、続くようにと。
 
 
 
 
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(c)aruhi 2008