草のにおいと冠

 

「トゥーアナ」
 
 呼びかけると、彼女は振り返って微笑む。
 吹き抜ける風は草と共に大気をも動かす。降り注ぐ日差しは穏やかさを増した。
 だが、そこに生じた違和感は何であったのだろう。
 
 この風景の中にトゥーアナは似合わない。
 
 つまりは、恐らくそういうことだった。
 
 
*****
 
 
『トゥーアナ様へ
 
 おかわりありませぬでしょうか?
 ルメンディアでは新緑が深みを加えて濃く鮮やかに輝いております。
 テアダ山の頂の雪も今ではすっかり消え果ててしまいました。
 なので、もしかするとアオムーシュの横を流れる川の水が勢いを増すかもしれません。
 けれど、それも初夏のしるし。夏の盛りにはきっと例年のように心地の良い水音を届けてくれるでしょう。
 トゥーアナ様、こちらは皆、元気ですよ。
 御身のことだけはどうぞお労りくださいませ。
 
 貴女様の幸運をいつも心から祈って。
 
                                                      ティティア』
 
 ほんの数行の他愛も無い内容の手紙。だが、それさえも宛主に届く前に、封蝋はためらいもなく開けられる。
「悪いな、トゥーアナ」
 開封済みの手紙を受取った彼女は、目を瞬かせた。それから、「いえ」と微笑する。
「当然のことです。私がガーレリデス様の立場であったとしても、迷わず同じことをするでしょう」
 蝋の途切れた封筒を開け、トゥーアナは手紙に視線を落とす。落ちた翳は、震えることなくただ文面を追った。
それを、黙って見据える。トゥーアナのすぐ右にはバロフが、左には侍従であるヘリアデルが立ち、同様に彼女の所作を観察する。手紙にも、彼女の様子にも忌避すべき要素など、どこにも見えはしないのだが、これは話が別である。簡単に切り上げるわけにもいかなかった。
トゥーアナは静かに瞳を閉じた後、音もなく手紙を畳んで元のように封筒に収める。と同時に詰め張られていた空気も消えた。
バロフは目をすがめ、元通り封筒へ納められた手紙を見た。トゥーアナは椅子に座ったまま、ヘリアデルに読み終わったばかりの手紙が入った封筒を渡す。彼女宛ての手紙はトゥーアナの元に残ることなく、代わりに部屋にくくりつけてある戸棚の引き出しの一つへと収納された。いくつもの手紙が重ね入れられている引き出し。その上に、また一枚手紙が重ねられた。
戸を叩く音は控えめに二度、鳴り響いた。それと前後して、侍女が文官の一人の来訪を告げる。頷いて許しを与えると、入室してきた文官は礼を取った。
「お取り込み中、申し訳ありません陛下。宰相殿に確認をしていただきたい用件がございまして……」
 彼はちらとバロフを見る。バロフの方はと言うと、見取られぬ程度に肩を竦めていたところだった。億劫だと顔に書いてある。
「いい、連れていけ。ちょうど用も済んだところだ。バロフもわざわざご苦労だったな」
 いえ、と短い返事があり、二、三言付けられる。バロフが去った後、扉は軽く微かな音を立てて閉ざされた。
 
「それでは、私も失礼させて頂きます」
 トゥーアナが椅子から立ち上がると同時に、結わえることなく腰まで流された淡い金の髪は揺れた。
 許可を与えかけて、ふとやめる。閉じられた引き出し、戸棚の手前には未だヘリアデルが立っていた。
「ヘリアデル」
「はい」
「外套を二着持ってきてくれ」
 ヘリアデルは表情を変えず、すぐに隣室へ消えた。次に現れた時には、畳まれ重ねられた二着の外套が彼の手の中にあった。
 その内の一着を受け取って広げ、トゥーアナへと頭から被せ着せる。
 再びまみえた彼女の双眸は普段にも増して丸く大きかった。
「やはり大きすぎやしませんかね?」
「まあ、俺のだから多少は仕方がないだろう。バロフと爺様たちにばれなきゃいい」
 フードを目深に被せて淡色の髪を覆い隠し、その上からぽんぽんと叩く。
「少し暑いだろうが我慢しろ、トゥーアナ。見つかると厄介だからな」
「あの……」
 トゥーアナは顔を上げた。だが、フードの淵に隠れた彼女の目は見えない。
「よし、外に行くぞ、トゥーアナ。じゃあ、ヘリアデル、後は任せた。バロフが来たら仮眠しているとでも言ってごまかしておけ」
「御意」
請け負った侍従の手から残りの外套を貰い受け、反対側でトゥーアナの手を取った。しかし、小さな引きを感じて、立ち止まる。
「あの……、ガーレリデス様」
「何だ? トゥーアナは、乗馬はできたはずだろう?」
「はい、できます。そうではなく、そうではなくて……付き人は」
「いるか? メレディ殿なら連れて来ても構わないが」
 この場にはいず、今も彼女の部屋で待機しているだろうルメンディアの侍女。だが、トゥーアナは俯いたまま首を横に振った。
「そうではなく、護衛を……」
「一応剣はあるが」
 常にその場所にある長剣を示す。
 にもかかわらず握られている手の強さは増した。顔を上げて、彼女はこちらを見据えて口を開く。
「お願いです。護衛を連れておいてください」
 それは強いと言うよりは、固い語調であった。懇願と言うよりは、まるで切願のような。
「まあ、構わないが」
 けれど、そうするとバロフの耳に入りそうな気がする。下の下の方を借りてくるか、と口には出さずに決定事項とした。例え門番でも一応選りすぐりの国軍の一員であることには変わりはないのだから。
「あ、……有難うございます」
「うん? ああ」
 彼女は下を向く。だから、何も見えはしなかった。
 
 
 
 風はいつもざわめきを促す。
 城からそうは離れていない場所に、丘はあった。長くのびた草はさらさらと揺れる。その合間にぽつりぽつりと咲く野の花は長い草に隠れて愛でることは難しかった。
 眼前に広がるのは各地へと続く道の始まりである。それよりももっと向こうに、陽光を受けて輝く水面はあった。ここから流れを確認することはできない。だが、今も多くの水を湛えて流れているだろう、その川。
「フォウルダ川……ですか?」
「そうだ。あれもテアダ山の雪解けの影響を受ける。根本の主流は恐らく同じだろうな」
「テアダ山の……」
 トゥーアナは咀嚼するように呟きながら、遠くの川を眺めやった。
「綺麗、ですね。ここからでも水面がキラキラと光っているのがよく分かります」
 城内を出てからは覆いをなくしていた淡い金の髪は宙をたゆたう。
 彼女が操っていた馬もが、鼻先を伸びゆく川に向けていた。いななきもせず、草をはむことも無く、静かに佇んだまま遠くを見つめる。
「知りませんでした。すぐ横を通って来たはずなのに。途中まではあの川に沿って来たんです。ですが、知らなかった」
「そうか」
「はい」
 ざわざわと風は鳴る。草がさらされる奏では、川に似ているとよく言う。だけど、そうだろうか。少なくとも、そう感たことは一度もない。ごぽりと深く響く音を風で聞いたことは一度もないはずだ。
「トゥーアナ?」
「はい」
「川が勢いを増したら今度は近くまで行ってみるか?」
「いえ、ここで充分です。ですから……」
 彼女はこちらを向かなかった。代わりに、視線を落として。
だから、俯いているのか、眼下の景色を見ているのか俺には判断できなかった。
 ただ、風を受けた金色の髪が眼前で広がり、舞った。
指に当たった淡い金糸はさらりと、また空へと舞い上がる。
風を受けて立っているトゥーアナは手で髪を整えることもしない。そのまま、風を受けては流していた。治まった風はふわりと髪を彼女の背へと戻し、けれど、すぐに巻き上げては指をくすぐるように遊びゆく。
 
「トゥーアナ」
 
 呼び掛けたら、彼女は振り返る。
 ふわりと。まるで花のように彼女は小さく小さく微笑む。
 
 似合わないと思った。それは、とても唐突に感じた違和感であった。
 トゥーアナはこの場所に酷く似つかわしくない。
 淡く薄い彩りを持つ花のような微笑を浮かべているのに、彼女の笑みのような野の花が咲いているこの場所が至極似合わない。
 より相応しく見えてしまうのは、薄闇の中、窓辺で佇む姿の方であった。遠い灯火を見下ろして。壁に囲まれた部屋の中、冷たい窓辺に佇む、あの姿。
 
 何故なのだろう、と。
 
 この風景の中に彼女ははまりすぎてしまうのだ。はまり込みすぎていて、だから、逆に不自然である。
 この風景の中に、トゥーアナは似合わない。少なくとも今の彼女には。
 
 それならば、いつかこの風景も彼女に似合うようになるのだろうか。
 だが、彼女にとってみればどうだろうか。それは、必ずしも良いことなのだろうか。
 
「楽しいか、トゥーアナ」
「ええ、とても楽しいです。ここはとても風が気持ちいい。ここに来られて、幸せです」
「それは、よかったな」
「はい、有難うございました」
 
 トゥーアナは、また遠くの川を見やって、目を細める。
 一度目を伏せてから、こちらを向いて、彼女は困ったように笑った。
 それは、普段のものに近いもので。先程のものとは違う種類のもので。
だから秘かに安堵する。
 おかしかったのだ、今日は。ここ数か月なりを潜めていたものがありありと出ていた。
 
「なら、戻るか」
「はい」
 
 風は絶えず吹いていた。促されたざわめきはざわざわと騒ぎ立てるが、消えはしない。
だが、聞こえないふりをする。
手で耳を塞いだりはしない。そうすると、認めてしまったことになるのは疾うに気付いていた。
絶えず聞こえるざわめきなら、慣れてしまえば気にもならぬことになるだろう。
 
だから、できるだけ、できうる限り。
 
 
 
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(c)aruhi 2009