うるさい小鳥

 

「――トゥーアナ様っ……!」
 ルメンディアからケーアンリーブへの帰城。出迎えの為、立ち並ぶ面々の表情は硬かった。バロフは口を閉ざしたまま、重々しく頷く。
 恐らく知らせてはいなかったのだろう。ただ独り、長年ルメンディアの王女に仕え続けた老侍女だけが、激しく慟哭した。
 馬車から降りた瞬間、抱えられて力なく横たわる存在を目に入れて、すぐさまメレディは泣き叫んだ。老侍女がこの結末を最も危惧し、その可能性を口にせずにいただけだったと知るのは、もう少し後のこと。だからこそ、トゥーアナが息をしているかいないのか、それさえ確認せずに、メレディは抑えられぬ衝動を痛嘆に変えることができたのだ。
 半ば狂乱し始めた老侍女を、会した者の幾人かが押しとどめた。彼女は腰を折ってもがきながら、何度も主の名を繰り返した。
 メレディの腕の中にある小さすぎる赤子。縋るように強く抱きしめられたせいだろうか。メレディに抱かれて眠っていたはずのラルーが、急に表情をくしゃりと崩したかと思うと、火を付けたかのように泣きだした。
 脳にまで鳴り渡るまだ新しい声。まるで共鳴するかのような嗚咽にも、やはり現実味はなく、空々しくこだましていく。
だが、今回はあの日のようにトゥーアナが目覚めることは二度とない。
 
 
*****
 
 
「お・ど・き・な・さ・い、と申しているでしょうが!」
「ですから、少々お待ちを。只今、会議中であらせられます。会議が終わり次第、お伺いを立て――」
「――待っていられるものですか! 貴方がたは事の重大さも判断できないのですか!」
 制止の声をものともしていないらしい異国の老侍女の怒声が扉の向こうで鳴り響く。宰相である男の呆れの滲んだ溜息と共に、会議の為に集まった面々は苦みを浮かべた。ただ同じ苦みでも、そこには苦虫を噛み殺したような顔つきの者たちと、どこか穏やかな許容を含んだ苦笑を浮かべる者たちがある。
「どうやら、無事お生まれになったようですね。おめでとうございま――」
 バタンッ、と。
両開きの扉はバロフの祝辞を遮って勢いよく盛大な音を立てて両方向に開いた。一斉に皆の視線が仁王立ちしている彼女へと向かう中、バロフだけがとうとう片手を額に押し当て、頭を抱えた。
 今日、もたらされる予定となっている報告は一つ。
 メレディは、部屋に飛び込んできた者とは別人のように、そそと進み出ると、軽く膝を折り、腰をかがめて定められた所作で礼を取った。
「まずは、陛下。御子のご誕生をご報告いたしますとともに、心よりお喜びを申し上げます。健やかなる男児にてございます」
「そうか」
「はい」
 メレディは顔を上げぬまま続けた。
「しかしながら、母体が安定しておりません。御子を出産なられた直後、意識を失われてしまいました」
 それが何を意味するのか――誰もが理解したとたん、会議の場に落ちたのは重い沈黙でしかなかった。
 トン、と唯一静寂を打ち破ったのは、紙片を整える軽い音だった。書類を両手に持ち机上に立たせていたバロフは「そろそろ休憩をとりましょうか」と言った。
 この国の宰相は集まった面々を見渡す。
「異存は…………ありませんね。どうでしょう、陛下」
 バロフの目に感情は映っていなかった。ただ淡々と事務的に物事を確認してくる。
「――ならば、半刻ほど休憩とする」
 
 
 入った部屋の中は慌ただしさの中にも落ち着きがあった。お産に携わったことのある者たちにしてみれば、このようなことは珍しくもなんともないのだ。しかるべき手段をとって、今可能なことをこなしていくだけである。
 産時において母子ともに無事でいられる確率は七分、さらにその後も健康でいられる確率は半数にも満たないというのがこの国の現実だ。よく分かっていたはず。
「――気つけは?」
「すでに試してみましたが効果はありません」
「そうか」
「脈だけは安定しているのですが」
寝台の脇についていた産婆は『こればっかりは分かりません』と首を横に振った。
どこかぐったりと寝台に身を預けているトゥーアナはだが、呼吸だけは静かだった。長い髪は一つに編まれて、片側に流されていた。淡い色合いのゆるりとした衣から垣間見える肌は、ほてって汗ばんだまま。
その姿が前に見たことのある記憶と重なった。
まったく。あの時言ったこととは真逆の事態になっている現状にどういった感想を持てばよいのか。
「トゥーアナ?」
 額に張り付いている彼女の前髪を軽く指で払う。答える声はなかった。だが、編まれた髪から外れた幾筋かが、一人でに動いたことに驚く。
 先を辿るとトゥーアナよりも尚赤い小さな手が、髪を握り込んでいた。それは、ふわぁと口を縦に開いて、あくびをする。
「何だこれは……」
「何って、ガーレリデス様。貴方様の息子ですよ」
 後ろに控えていた王女の老侍女が呆れた目をこちらに向けた。産婆までもが同様の目でこちらを見る。
 いや、本当に理解できなかったわけではないのだ。
だが――
「…………小さい」
 人間にしては酷く小さすぎるように見えた。
 それでも、これがトゥーアナの中に居たのだと言われると信じられなかった。思うのはむしろ、よく入れていられたなということ。
赤く、くしゃくしゃと崩れた顔の奇妙な生き物。目は開いてすらいない。不思議だった。
「先ほどまではとても威勢のよい産声をあげてらしたのですよ」
「トゥーアナは……」
「まだご覧になられておりません」
 メレディは先を引き取って、答えた。かすかに悲しげな視線を投げかけているのは、この老侍女こそがトゥーアナを乳児の時より育ててきたからなのかもしれない。
「…………」
 何も言えずに、ただ並んで眠っている二人を眺める。
よく眠っているという表現はおかしいのだろうが、今日改めて母子となった二人がそろってすやすやと寝入っているだけのように思えた。
「お抱きになりますか?」
 問いの形式をとっているのにも関わらず、恰幅のよい産婆は答えを聞く前にさっさと赤子を抱きあげて、前に差し出した。
「きちんと首を支えてあげていてくださいね」
「…………」
 軽い重みが掌にかかる。ふにゃりと折れて取れそうになった頭を、産婆の教えに従い、慌てて首の後ろ側から支えた。
「えーっと名前はどういたしましょうか? どうお呼びすればよいのでしょうかね?」
「男児でしたからラルシュベルグになるのでしょうか、ガーレリデス様。他に候補がでませんでしたものね」
「まぁまぁ、もう決まっておられるのですか」
「もう何か月も前からお二人でお考えになっていたのですよ。結局、ラルシュベルグという候補を上げたのはバロフ様の方ですが」
「あらあらそれは結構なことで」
 ほほほ、と笑う産婆に、メレディは「ええ」と首肯した。似かよった歳であるらしい彼女たちは、勝手に話を進める。
――なるほど、これがラルシュベルグなのか、と思った。
 片手だけで事足りそうなほどこじんまりとおさまっている存在に目を落とす。相変わらず顔は潰れていて、熱があるのではと勘違いしそうなほど体温が高く、熱い。芽吹いたばかりの若葉と変わらない大きさに見える掌をつついてみると、指を掴まれた。やはりこれは小さすぎるだろう。この小ささでは指一本を握ることで精いっぱいではないか。
「あー……っと、ラルシュベルグ?」
 眉間にまで皺を寄せて眠っているのだから、問いかけても意味はないだろうなと頭の片隅で思いながらも、なんとなく口に出してしまった。そもそも赤子はまだ喋ることができないのも分かっているが。
「お前、まだトゥーアナの髪を引っ張っていたのか」
 反応は返るはずもなく、だが、ラルシュベルグの握りこぶしからは答えを求めるまでもなく事実たわんだ淡い金の糸が伸びている。何かの拍子で髪を引っ張ってしまったら、あっさり切れてしまいそうだった。自身の指をラルシュベルグの五指から引き抜いて、反対側の小さい握りこぶしを解く。意外としっかりと握り込まれていた小さな手からは、それでも淡い髪がパラパラと落ちた。
 
「――どうなさいましたか!?」
 突然、鳴り渡り始めたけたたましい泣き声に、メレディと産婆はそろってこちらを向く。
 むずがりだしたラルシュベルグは、しわくちゃの顔をさらに歪めて泣き叫んでいた。
「一体何をなさったのですか」と、メレディが俺の腕の中から慣れた手つきで赤子をさらって半ば咎めるように言った。
「いや、特には何もしてない」
 ……と、思うのだが。
それにしても、この小さい体のどこから出しているのだろうというくらいの音量に正直驚く。一向に泣きやむ様子のない赤子をあやしながら、メレディはゆったりと歩み始めた。
「どこに行くんだ?」
 立ち止まった老侍女は、こちらを見上げて不思議そうに首を傾げる。
「あやすついでに、もうそろそろ子供部屋の方へお連れしようと思いまして。ここはしばらく人が行き交うことになるでしょうから、ラルシュベルグ様も気が休まらないでしょう」
「ああそうですね、その方がよいかもしれません」と産婆が相槌を打つ。
 二人の言葉に「いや」と一度かぶりを振って、ラルシュベルグを取り上げた。近くで聞けば聞くほど、この泣き声はうるさい。城の細部にまで響き渡っているのではないかと思うほど。
だから――
 
「起こせ、ラルー」
 
 トゥーアナの枕元にラルシュベルグをおろす。小さな手は再び探し当てた金の長い髪の束をすぐに握りしめる。それでも、彼は泣くのをやめようとはしなかった。
「ラルーは傍に居させてやれ。後は任せた」と、メレディに言付ける。少し驚いたように目を瞬かせたメレディは、しかし、特に非難することもなく実状を受け入れた。「確かに」と老侍女は頭を垂れる。
 あと一度だけ、寝台に居る二人を見やってから、その場から離れた。
 
 
部屋を出ようとした時、戸口に立っていた初老の男に気付いて、足を止めた。
「何だ、どうかしたのか?」
 問うと、彼は眉をひそめる。
「もうお帰りになるのですか? まだ時間には少しばかりお早いですよ」
「別に、早い分には構わないだろう」
「しかし、トゥーアナ様が……!」
 言いかけて、彼は口ごもった。部屋の奥を一瞥し、多少の困惑とともにかぶりを振る。
「私たちだって、認めたくないわけではないのですよ? ただ立場上、認めることはできないのです」
「分かっている」
 だから、と彼は不機嫌そうに続けた。「ここに居てもよろしいですよ」と。会議は中止にしても別段困りはしないのだからと彼は言う。
「いい、戻る」
「しかしですね」
「――ああ、ありがとう」
 目の前に立つ初老の男が瞠目する。その様が妙におかしかった。
「せっかく来たのなら見舞っていってやってくれ」
 苦笑しながら、彼の横をすり抜ける。
 
 
 トゥーアナが目を覚ましたのは、それから三日後だった。
 そして、やはり彼女を起こしてくれたのは、他でもない彼女が望んだ名を持つラルシュベルグだったのだ。
 
 
 
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(c)aruhi 2009