枕よりはぼくの方が

 

「ちーちーうーえー!」
 緑の中を小さな子どもが駆けてくる。その後ろを、ラルーを留めて置くことに失敗したらしい二人の侍女が必死になって追いかけていた。裾の長い衣を、両手でたくしあげて走りながら、前を行く七歳児を呼び止めようと慌てている。
そんなメレディたちをどんどん引き離して、一足先にここ、庭に面する渡り廊下まで辿りついたラルーは、弾む息をそのままに、得意げに笑った。
見上げてくる青いくるりとした目に、思わずつられて笑う。
「いい子にしてるか?」
 随分と長い間外にいたのだろう。淡い金の髪をかき混ぜると、陽を浴びた髪は熱を持っていた。
 ラルーは嫌がって、両手を使い、ムキになって俺の腕を押し上げ、払いのける。
「やめてよ、父上! もう小さい子どもじゃないんだから」
「小さい子どもじゃないのか?」
「そうだよ。メレディにだって言われたんだから。“もう小さい子どもではないのですから駄々をこねるのはおやめなさい”って」
「それはただ、叱られているだけだろう」
 顎を反らして、澄ましていたラルーは、ぐっと口をつぐんだ。どこからどうみても小さい子どもにしか見えぬ仕草に、後ろに控えていたバロフまでもが笑いを呑みこみ損ねたのか、こっそりと咳ばらいをした。
 目ざとくそれに気付いたラルーはしかめっ面で、バロフを睨んだ。
「大きくなったのは、なったな」
 ぐしゃぐしゃになってるぞ、と言うと、ラルーは文句を言いながら、慌てて髪を撫でつけ整えた。
 ようやく、辿りついた二人の侍女は、深く息をついて、頭を垂れると、数歩離れた場所に控えた。メレディなどはかなりしんどいだろうに、表情だけは、いつも通りかしこまっているから、感心する。
 出会った頃よりも、さらに歳を重ねた老侍女は、それでも、未だ英気に満ち溢れて、衰えを見せない。
それでも、「あまり、メレディを疲れさせるなよ?」とたしなめてから、「何か用事があったのか」と、ラルーの元に膝をついて、腰を下ろす。
「だから、走って来たんだろう」
「そう。よくわかったね。聞きたいことがあったんだよ」
 ラルーは前置いて、ねぇ、と問う。
「売女って何?」
 何の含みもなく、無邪気に問いかけるラルーに、バロフは咳を気管に詰まらせ、メレディたちは、小さな声で悲鳴を上げた。
 ラルーはぱちくりと彼らを見、不思議そうに首を傾げる。
「ラルー、それどこで聞いた?」
「こないだ来てた子たちが言ってたよ。俺の母上は、売女だって」
「なるほど」
 頷く。こないだということは、他国から来た連中の誰かが言っていたのだろう。
「そうだったのか?」と問い返せば、「即座に否定してくださいよ!」とバロフが怒鳴った。
「だが、トゥーアナが自分を売り込みに来たことには間違いないぞ」
「――陛下!」
「分かった、分かった。落ち着け」
 いますぐにでも、ラルーを取り上げて、別の場所に連れて行きたそうなバロフは、こめかみを押さえた。「全く、冗談にも程があります」と彼は、息まく。
「いいですか、ラルシュベルグ様。トゥーアナ様は決してそのような方ではございませんでしたよ」
「違ったとかそうじゃなくて、母上がどんなだったかを知りたいのに」
 ラルーは不服そうに言う。
「母の話なら、メレディがしてくれるんじゃないのか?」
「だけど、たまに、もう少し知りたくなる時があるよ。どうしても」
 言って、ラルーは口を引き結ぶ。
それでも、ラルーの中には母の思い出がないのと同時に、彼女がいないことに対する寂しさや、悲しみは覚えようがないのだろう。あるとするならば、話の中にしか存在しない者に感じる孤独感だ。なぜなら、ここにいる者の中で、ラルーだけがトゥーアナの記憶がないのだから。その隙間を埋めたいのだろう。
「ラルーが笑うと」
 俯かせていた顔を上げて、ラルーははっとこちらを見る。その所作に目が和らぐのを感じた。
「お前は、トゥーアナによく似ている。お前の母は、よく笑う人だった。花みたいに小さく微笑う。けど、力いっぱい笑う、ラルーを見ているのも安心する」
 それから、とまだ、ふっくらとした幼さの残る手を取る。
「夜には窓辺で、街に灯る明かりを見るのが好きだった。いつも手が冷たかったのは、ラルーと逆だな」
 他にはな、と考えている途中に舌に沁み渡る苦味を思い出して、笑いがこみ上げてくる。
「紅茶をつくるのは、俺よりかは上手いが、メレディよりかは下手だったぞ」
「父上のは、苦すぎるんだよ。あんなの飲みものじゃないよ」
「なら、ラルーは、今のうちに、メレディから教わっておくんだな」
「今だって、俺の方がまだましだと思うよ」
 くすくすと笑って、ラルーは「他には?」と聞いてくる。
 だから、うん、と頷いた。
「いつも、幸せだと口にしていた」
 ほんのわずかなことでも、そう口にする。
些細過ぎる幸せを幸せだと感じる人間は、果たして本当に幸せだと言えるのだろうか、と何度も考えた。
けれども、彼女の中で、答えが出ていたのなら、それしか答えはないのだろう。
「ラルシュベルグのことを心の底から愛していた」
 じっと、瞬きもせずに見上げてくるラルーの頭を、くしゃくしゃと撫ぜる。ラルーは何も言わなかった。
「だから、他の者が何を言っても、惑わされずに、そのことだけを、きちんと刻んでおけ」
 いいか? と、目で問うと、彼はしっかりと、首肯する。
「父上」とラルーは言った。
 軽く取られていただけの手を、今度は握り返してきて、ラルーは問う。
「大丈夫?」
 思わず、ぽかんと口を開いてしまいそうになった。
 心配そうな目が、余計に笑いを誘った。
「お前、誰に向かって聞いてる」
 ラルーの頭に載せていた手で、そのまま頭を小突く。
 淡い金色の光を宿す頭をよろめかせて、後ずさったラルーは、顔を上げるといたずらめいて、笑った。
「ラルーが、王になるまでには、何も言われないようにしといてやるからな。バロフによーく頼んで全部任せとく」
「わ、私なんですか!?」
 突然、話を振られて、素っ頓狂な声を上げたバロフに、ラルーは、次の瞬間ケタケタと声を立てた。メレディとアシュレイも、口を片手で覆い隠し、こそりと笑いを堪えあう。
「別に嫌ならいいんだよ」とラルーは、ここぞとばかりにバロフに言った。実際のところ、どこまでラルーが理解しているのか、微妙なところではあったのだが。
 コホリと、バロフは居心地悪そうに咳をする。
「貴方がたが、望むのならば従わざるを得ないのですよ。それに、ガーレリデス様に関しては今更でしょう」
「まあな」
 目配せをすれば、長年傍にいるバロフは、肩を竦める。
 ラルーだけが、微妙な顔をして、もどかしそうに見上げていた。
 
 
 
 
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